作曲された経緯
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当作はカイロから委嘱されたものであったが、異国情緒も盛り込んだ雄大な作品に仕立てられそうだと予感したヴェルディは、19世紀に流行したフランス・グランド・オペラの様式を応用した作曲技法を駆使しようと着想する。 ヴェルディは1854年にパリからの委嘱で「シチリアの晩鐘 」(翌55年初演)を作曲以来、当作の前作にあたる「ドン・カルロ」(67年初演)まで、繰り返しパリの劇場からの要請に応えてグランド・オペラ様式で作品を発表したが、当時のヨーロッパ文化の中心地であったパリでの決定的成功には至っておらず、ヴェルディ自身その点は心残りであったと伝えられる。当作において作品の性質上、パリでの仕事で学んだ様式が有効と判断したヴェルディは、グランド・オペラ様式を忠実になぞるのではなく、グランド・オペラの精神に自らの創意と個性を融合させた、おそらくは彼にしかなしえない“イタリア風グランド・オペラ”を作りあげたいと構想を固め、作曲を進めた。 ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが(少なくとも作曲時の19世紀においては)考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます」という返信をしている。こうして無事に(?)巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。 1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができるオーケストレーションまでを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月(台本の初回受領からは4か月)で総譜まで完成というのは、『アイーダ』のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。
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