ヒメーネス神父の写本
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「ポポル・ヴフ」の記事における「ヒメーネス神父の写本」の解説
1701年、ヒメーネス神父はサント・トマス・チチカステナンゴに着いた。この町はキチェ族の領地であり、従っておそらく神父ヒメーネスが最初に歴史神話を編集した場所とされている。ヒメーネスは書写と翻訳を並行して手がけ、キチェ語写本(ラテン文字とParra文字で発音を転写)およびスペイン語訳を残した。1714年頃、ヒメーネスは第2章から第21章のスペイン語訳を自著『Historia de la provincia de San Vicente de Chiapa y Guatemala de la orden de predicadores』1巻に組み入れた。ヒメーネスの写本は没後もドミニコ会の所有で保管されていたが、1829年–1830年にわたりフランシスコ・モラサン将軍がグアテマラから聖職者を追放したことで、ドミニコ会の書物の大部分がサン・カルロス・デ・グアテマラ大学に移管された。 1852年から1855年まで、モーリッツ・ワグナーとカール・フォン・シェルツァー(英語版)医師は中央アメリカを旅行し、1854年5月初旬にグアテマラシティに到着した。シェルツァーはサンカルロス大学図書館でヒメーネスの著作を見つけ、その中の「del mayor interes(最も興味深い)」という特定の項目に着目した。グアテマラの歴史家にしてアーキビストのフアン・ガバレーテ (Juan Gavarrete) の助力を得て、シェルツァーは写本の後半からスペイン語の内容を写し取り(または写本を作成し)、ヨーロッパに戻ると公表した。 1855年にフランスの大修道院長シャルル・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブールもまた大学図書館でヒメーネスの著作を見つけた。しかしながら、シェルツァーが写本をコピーしたのに対し、ブラッスールは明白に大学の文献を無断で持ち出し、フランスに持ち帰った。ブラッスールの死後1874年に、ポポル・ヴフを含むメキシコ - グアテマラ地方の蒐集品がアルフォンス・ピナール (en) の手を経てエドワード・E・エア (en) に売却された。エアは1897年に自身の1万7000点の収蔵品をシカゴのニューベリー図書館 (en) に寄贈すると決めたが、この計画実現は1911年まで待つことになる。ヒメーネス神父による『ポポル・ヴフ』の書写翻訳本は、エアからの受贈品に含まれている。 1941年にA・レシーノス(英語版)がニューベリー図書館で(再)発見するまで、ヒメーネス神父の写本は行方不明とされていた。一般に通説では、ヒメーネス写本を直接、編集したのはシェルツァー以降、発見者のレシーノスが初めてとされてきた。しかしマンロー・S・エドモンソン(英語版)とカルロス・ロペスは、最初の(再)発見は1928年のウォルター・レーマン (en) と考えている。アレン・クリステンソン、ネストー・キロア、ジョン・ウッドラフ、カルロス・ロペスの説では、いずれもニューベリー図書館蔵書をヒメーネス唯一の「オリジナル」と見なしている。
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