ヒメーネス神父の原資料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:11 UTC 版)
「ポポル・ヴフ」の記事における「ヒメーネス神父の原資料」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ヒメーネス神父の写本。ここに示す冒頭の見開きページのとおり、その大半はキチェ語とスペイン語を併記してある。 ヒメーネスは教区庁から口述筆記の写本を原資料として借りたと一般的には信じられている。しかしネストー・キロアは「そのような写本は全く見つかっておらず、従ってヒメーネスの作品は学術研究にとって唯一の原資料である」と指摘している。この文書は、ペドロ・デ・アルバラードの1524年の征服後まもなく、サンタ・クルス・デル・キチェまたはその周辺で口頭朗読が行われ、それを聞いた文字に起こした(口述筆記)という通説がある。A・レシーノスとデニス・テドロック (en) は、ポポル・ヴフ巻末にある系譜を植民地時代の記録と比較することにより、その時期を1554年から1558年の間だと示唆している。 しかし、そのテキストが「書かれた」書物と言う点で「ポポル・ヴフの現存に関する結論を出す際に、最初の1ページ目の文章を評論家たちが額面どおりに受け取りすぎているように思える」 とウッドラフは警告する。仮に征服後の初期の書物があるとすれば、ある学説(最初の提示はルドルフ・スカラー)では口述筆記した書記者を『Título de Totonicapán』に署名した人物の1人 Diego Reynoso としている。別の著者の可能性として、『Título de Totonicapán』に「Nim Chokoh Cavec(Kaweqの偉大な執事)」として系図が掲載された、Don Cristóbal Velasco もありうるとされる。いずれの場合も、植民地時代の存在はポポル・ヴフの序文に明示されたとおりである。 「これを私たちは今、神の律法のもと、そしてキリスト信仰のもとで書くつもりである。私たちがそれを明るみに出す理由は、海の向こう側からの到来や私たちの暗黒時代の叙述がはっきりと見られ、私たちの生活が明確に見て取れた、いわゆるポポル・ヴフが今やもう見られなくなっているためである」 したがって、内容を「保存」する必要性には前提として内容の消滅が差し迫っているとして、エドモンソン(英語版)は征服前の絵文字的なコデックスを理論化して提示している。ただし、そのようなコデックスの証拠はまだ見つかっていない。しかしながら、少数派はその存在の議論に使われるのと同じ根拠を用いて、ヒメーネス以前のテキストの存在に異議を唱えている。どちらの立場も、根拠はヒメーネスによる2つの声明である。1つ目は『Historia de la provincia』で、ヒメーネスはサント・トマス・チチカステナンゴの副牧師在職中に様々なテキストを見つけたと記しており、それは「彼らのほぼ全員がそれを暗記している」にもかかわらず「長老大臣たちの間でもその痕跡さえ明かさなかった」ような秘密で守られていたものだった。 ヒメーネス以前のテキストの存在の論拠に使われた2番目の箇所は、『ポポル・ヴフ』へのヒメーネスの補遺であり、次のように記している。先住民の慣行の多くは「彼らが持っている本、それは[キリスト教以前の]時代に起源する全ての月と各日付に対応した記号を付した予言のようなもの、に見ることができる。そのうちの1つを私は所有している」シェルツァーは脚注にて、ヒメーネスが言及しているのは「単なる秘密のカレンダー」で、自分自身がワーグナーとの旅行中に「グアテマラ高地の様々な先住民の町でこの粗野なカレンダーを以前見つけた」と説明している。これだとヒメーネスの所有品は『ポポル・ヴフ』ではなく、慎重に守られてきた品であってヒメーネスには容易に入手できる類のものではなかったという点で矛盾が出てしまう。これとは別に、ウッドラフは「ヒメーネスは自分の情報源を決して開示せず、代わりに彼らが望むものを推察するよう読者を促しているため……先住民の間でそうした文字化された改訂版が無かったとしても妥当である。暗黙の折衷案としては、彼または別の宣教師が口頭朗読から最初の書下ろしテキストを作成したのだろう」と推測している。
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