キューバ革命以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:05 UTC 版)
1959年に起こったフィデル・カストロによるキューバ革命以降、アメリカとの関係が急激に悪化。そのため、メジャーリーグとキューバ野球の交流も1999年3月28日にエスタディオ・ラティーノアメリカーノでボルチモア・オリオールズ対キューバ代表の親善試合第1戦が開催されるまで途絶えた。1961年3月にカストロのプロ禁止命令を受け、プロ野球リーグ、"リーガ・クバナ・デ・ベイスボル"が解散。その後の1962年1月にアマチュアの野球リーグとして"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"が設立された。 国内リーグの日程を国際大会参加に支障がないように組み、インターコンチネンタルカップやワールドカップでも最高のメンバーで代表チームを編成している。夏季オリンピックで野球が正式種目となった1992年以降の5大会で3度の金メダル(バルセロナオリンピック、アトランタオリンピック、アテネオリンピック)と2度の銀メダル(シドニーオリンピック、北京オリンピック)を獲得。また2006年に行われた第1回WBCでも準優勝しているようにプロ選手が参加しているチーム相手にもその強さを見せ付けている。2009年の第2回WBCでは対日本戦で二度の完封負けを喫し、1951年以来、58年ぶりに主要な国際大会での決勝進出を逃した。2013年の第3回WBCでも対オランダ戦で二度の敗戦を喫し、2大会連続で準決勝進出を逃した。 国内リーグの選手は国家公務員としてプレーをして、給与という形で収入を得る(ステート・アマ)。オマール・リナレスとペドロ・ラソは長年にわたる功労が評価され、例外的に他国プロ野球リーグでのプレーが許可された。1991年のレネ・アロチャのアメリカへの亡命以降は、メジャーリーグでのプレーを目的に亡命する選手が増えている。
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