キューバ革命から孤立政策へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 05:18 UTC 版)
「キューバの雪解け」の記事における「キューバ革命から孤立政策へ」の解説
キューバで1952年に政権を掌握したフルヘンシオ・バティスタはアメリカ合衆国に従属する政策を推し進めたため、次第に反政府活動が活発化するようになった。その中でフィデル・カストロ率いる革命軍は農民の支持を得て勢力を拡大し、1959年1月1日にキューバ革命でバティスタ政権を武力で打倒することに成功する。 しかし、革命後に成立した政権は農地改革の過程でアメリカ企業を接収したため、これに反発したアメリカがキューバの主要産業である砂糖の輸入を停止して対抗した。この後にキューバが砂糖の買い付けなど経済協力を申し出たソビエト連邦に急接近したことを受け、アメリカが1961年にキューバとの国交断絶を通告したため、キューバも「社会主義革命」を宣言した。1962年10月にはキューバに核弾頭搭載のミサイル基地建設を進めるソ連に対し、アメリカが戦艦と戦闘機でキューバを海上封鎖して核戦争の一歩手前までいくキューバ危機に巻き込まれることになった。 アメリカは断交後に厳しい経済制裁を課すなど、キューバを孤立させる政策を続けてきた。1991年にソ連が崩壊した後もアメリカは制裁を緩和せず、それどころか、1990年代中盤に逆に強化した。反カストロ派のキューバ系アメリカ人(英語版)がこの対キューバ政策に強い影響力を与えてきたといわれる。
※この「キューバ革命から孤立政策へ」の解説は、「キューバの雪解け」の解説の一部です。
「キューバ革命から孤立政策へ」を含む「キューバの雪解け」の記事については、「キューバの雪解け」の概要を参照ください。
- キューバ革命から孤立政策へのページへのリンク