エルサレムの陥落
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1174年にヌールッディーンとアモーリーが没した。ヌールッデーンの死去により、サラーフッディーンの勢力はシリアにも及び、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。 一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世はらい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユ、イザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世がいた。 従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。 宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンのリュジニャン兄弟、トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン、旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。一方、貴族派はトリポリ伯レーモンを中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン、バリアンのイブラン一族が加わっていた。 1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世とトリポリ伯レーモンのバランスを取りながら国政を運営し、シビーユにモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。 1177年のモントジザールの戦いでサラーフッディーンを破り、しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。貴族派は、シビーユとボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユをギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルをルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワ4世と結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモンや勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。 1183年にルノー・ド・シャティヨンの挑発に怒ったサラーフッディーンが、ルノー・ド・シャティヨンの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモンを摂政とした。 1185年にボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。貴族派を中心に諸侯は、シビーユの即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対し、トリポリ伯レーモン、ボードゥアン・ディブランなどの貴族派はイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワが寝返って失敗に終わった。 反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノー・ド・シャティヨンと組み、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めた。1186年、休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラーフッディーンの捕虜解放交渉はギーとルノーに無視され、ここに休戦は破れた。トリポリ伯レーモンはサラーフッディーンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモンに対してサラーフッディーンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモンは屈してギーと妥協し、1187年7月4日のヒッティーンの戦いでサラーフッディーンと激突したが、十字軍は大敗し、ギー、ルノー、テンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。 サラーフッディーンはモンフェラート侯コンラードが守るティールを除くアッコン、ナビュラス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。エルサレムにはバリアン・ディブラン(英語版、フランス語版)の他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラーフッディーンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行った(英語版)。しかし衆寡敵せず、間もなく降伏、1187年10月2日に開城したが、サラーフッディーンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。
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