新王国時代
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エジプト新王国時代のメンフィスは統治の上でも軍事的にも重要な都市であり、首都に次ぐ第2の都市だった。エジプト第18王朝以降、多くの高官がサッカラに墓を建てた。ホルエムヘブはまだ将軍だったころにサッカラに大きな墓を建てたが、後にファラオとなったためテーベの王家の谷に埋葬されることになった。 かつての多くの墳墓はこの時代にも建っていたが荒廃が進んでいった。ラムセス2世の子カエムワセトはサッカラの墳墓群の修復を行っている。中でもウナス王のピラミッド修復に際しては、修復を記念して南面に石碑を追加している。またサッカラにあったアピスの聖牛の埋葬施設を拡張し、自身もサッカラの地下墓地に埋葬された。フランス人エジプト学者オギュスト・マリエットは、その施設とカエムワセトの墓を発見した。
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新王国時代(第18 - 20王朝)
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「古代エジプト」の記事における「新王国時代(第18 - 20王朝)」の解説
紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンホテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次のトトメス2世は早世し、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。
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新王国時代
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中王国時代のピラミッドでは、どんなに対策をしても盗掘を防ぐことができなかったため、18王朝の初期にはピラミッドは造られなくなった。代わりに、第18王朝第3代トトメス1世より新王国が終わるまで、墓は王家の谷に造営されるようになった。墓は地下深くまで掘った複数の回廊と部屋からなり、内部は壮麗な葬送文書を含む壁画で埋められた。代わりに、葬祭の場は墓より少し離れた場所に場所の関係で移された。トトメス3世葬祭殿(英語版)などが好例である。しかしながら、結果的にKV62のツタンカーメン墓を除いてすべて盗掘されてしまい、王たちの死後の安住の地とはならなかった。
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新王国時代
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ヒクソスが追放され、国土が再統一されると、エジプトは史上最も繁栄した時代を迎える。トトメス1世、3世をはじめとする軍事に秀でた王たちは対外遠征を繰り返し、幾つもの小国を宗主下に置いた。その結果、エジプトは広大な領土を抱えるオリエント随一の大国となり、北のヒッタイトやメソポタミア諸国とも覇を競った。同盟国からは多大な富や資源がもたらされ、それらを元手に王たちは神々を讃えて盛んに寄進事業を行った。しかし、この行為がやがて寺社勢力の増大を招き、政治は次第に王家と神官団の駆け引きの様相を呈した。アメンヘテプ4世は国家主神の座をすげ替える宗教改革を断行し神官団への牽制を図ったものの、十分な成果を得られないまま頓挫し、後継者のツタンカーメンが若くして没すると王統も途絶えた。 軍隊の支持を集めて即位したホルエムヘブは低下した国力と威信の回復に努め、続く第19王朝の王たちも軍事に力を注いだ。ラムセス2世の代にはヒッタイトとの間に史上初の和平条約を締結され、国際的な秩序が確立した。ラムセス2世の70年近い治世はエジプト史上における黄金期となり、アブ・シンベル神殿をはじめ古代エジプトを代表する建築物の多くがこの時代に築かれた。 紀元前1200年頃、オリエント全域を天災が襲い、それに伴う民族移動の余波を受けて国際秩序は崩壊、エジプトも動揺に巻き込まれていく。近隣の大国が相次いで滅亡する中、エジプトはラムセス3世の手腕で国家の崩壊自体は食い止められたものの、対外的な影響力は喪失し、衰退が決定的となった。短期間でファラオが交代し、王権が求心力を失うにつれ、神官団は公然と国政に介入するようになり、遂には事実上の君主として上エジプトの所領を統治するようになる。こうして生じた権力の分立はもはや解消されず、第20王朝が途絶えると繁栄の時代は終わった。 王朝名在位(年)王名(英字表記)即位名第18王朝 前1550 - 1525年頃 イアフメス1世(Ahmose I) ネブペフティラー 前1525 - 1504年頃 アメンヘテプ1世(Amenhotep I) ジェセルカラー 前1506 - 1492年頃 トトメス1世(Thutmose I) アアケペルカラー 前1592 - 1579年頃 トトメス2世(Thutmose II) アアケペルエンラー 前1498 - 1483年頃 ハトシェプスト(女王)(Hatshepsut) マアトカラー 前1479 - 1425年頃 トトメス3世(Thutmose III) メンケペルラー 前1427 - 1397年頃前1427 - 1401年頃 アメンヘテプ2世(Amenhotep II) アアケペルウラー 前1397 - 1388年頃前1401 - 1391年頃 トトメス4世(Thutmose IV) メンケペルウラー 前1388 - 1351年頃前1391 - 1353年頃 アメンヘテプ3世(Amenhotep III) ネブマアトラー 前1351 - 1334年頃前1353 - 1336年頃 アメンヘテプ4世(Amenhotep IV) ネフェルケペルウラー 前1336 - 1334年頃 スメンクカラー(Smenkhkare) アンクケペルウラー 前1334 - 1325年頃 ツタンカーメン(Tutankhamun) ネブケペルウラー 前1325 - 1321年頃 アイ(Ay) ケペルケペルウラー 前1321 - 1293年頃前1306 - 1293年頃 ホルエムヘブ(Horemheb) ジェセルケペルウラー・セテプエンラー 第19王朝 前1293 - 1291年頃 ラムセス1世(Ramesses I) メンペフティラー 前1291 - 1278年頃 セティ1世(Seti I) メンマアトラー 前1279 - 1212年頃 ラムセス2世(Ramesses II) ウセルマアトラー・セテプエンラー 前1212 - 1202年頃 メルエンプタハ(Merneptah) バエンラー・メリネチェル 前1202 - 1199年頃 アメンメセス(Amenmesse) メンミラー・セテプエンラー 前1199 - 1193年頃 セティ2世(Seti II) ウセルケペルウラー・セテプエンラー 前1193 - 1187年頃 サプタハ(Siptah) アクエンラー・セテプエンラー 前1187 - 1185年頃 タウセルト(女王)(Twosret) サトラー・メリアメン 第20王朝 前1185 - 1182年頃 セトナクト(Setnakhte) ウセルカラー・セテプエンラー 前1182 - 1151年頃 ラメセス3世(Ramesses III) ウセルマアトラー・メリアメン 前1151 - 1145年頃 ラメセス4世(Ramesses IV) ヘカマアトラー 前1145 - 1141年頃 ラメセス5世(Ramesses V) ウセルマアトラー 前1141 - 1133年頃 ラメセス6世(Ramesses VI) ネブマアトラー・メリアメン 前1133 - 1126年頃 ラメセス7世(Ramesses VII) ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンラー 前1133 - 1126年頃 ラメセス8世(Ramesses VIII) ウセルマアトラー・アクエンアメン 前1126 - 1108年頃 ラメセス9世(Ramesses IX) ネフェルカラー・セテプエンラー 前1108 - 1098年頃 ラメセス10世(Ramesses X) ケペルマアトラー 前1098 - 1070年頃 ラメセス11世(Ramesses XI) メンマアトラー・セテプエンプタハ
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