新王国時代とは? わかりやすく解説

新王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:54 UTC 版)

サッカラ」の記事における「新王国時代」の解説

エジプト新王国時代メンフィス統治の上でも軍事的に重要な都市であり、首都に次ぐ第2の都市だった。エジプト第18王朝以降多く高官サッカラに墓を建てたホルエムヘブはまだ将軍だったころにサッカラ大きな墓を建てたが、後にファラオとなったためテーベ王家の谷埋葬されることになった。 かつての多く墳墓はこの時代にも建っていたが荒廃進んでいった。ラムセス2世の子カエムワセトサッカラ墳墓群の修復行っている。中でもウナス王のピラミッド修復に際しては、修復記念して南面石碑追加している。またサッカラにあったアピス聖牛埋葬施設拡張し自身サッカラ地下墓地埋葬された。フランス人エジプト学者オギュスト・マリエットは、その施設カエムワセトの墓を発見した

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新王国時代(第18 - 20王朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:13 UTC 版)

古代エジプト」の記事における「新王国時代(第18 - 20王朝)」の解説

紀元前1540年頃、上エジプト支配していた第17王朝イアフメス1世ヒクソス放逐して南北エジプト再統一し、エジプト新王国時代はじまったイアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後王朝慣例としてエジプト第18王朝呼ばれるイアフメス1世はさらにヒクソス追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後エジプト歴代王朝はそれまで古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域越えた大帝国建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる首都統一前同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプト支配下組み入れた次のアメンホテプ1世カルナック神殿拡張などの内政力を入れた紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力伸長背景積極的な外征行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻しユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷開発し以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次のトトメス2世早世し、紀元前1479年頃に子のトトメス3世即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世王妃であるハトシェプスト実権握り統治行っていた。ハトシェプスト遠征よりも内政交易重視し、この時代プントとの交易再開され、またクレタなどとの交易拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏境界にあるシリア・パレスチナ地方諸国次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプスト退位すると、実権握ったトトメス3世打って変わってアジアへの積極的な遠征行いメギドの戦いなど数々戦いで勝利を収めて国威回復させた。続くアメンホテプ2世トトメス4世アメンホテプ3世時代にも繁栄そのまま維持されエジプト国力絶頂期迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメン奉じる神官勢力伸長著しくなっており、王家徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次のアメンホテプ4世紀元前1346年ごろにアクエンアテン名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝廃止アメン信仰中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテン一神崇拝改める、いわゆるアマルナ宗教改革行った。このアテン信仰世界最初一神教といわれ、アマルナ美術呼ばれる美術が花開いたが、国内統治集中して戦闘避けたため、当時勢力伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方属国群を奪われ国力一時低下する紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王アメン信仰復活させ、アマルナ放棄してテーベへと首都戻した若くして死去しアイ経てホルエムヘブ即位するホルエムヘブ官僚制整備し神官勢力統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世後継指名して死去した。これにより第18王朝血筋絶え以後第19王朝呼ばれる王朝交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承既定路線であり、権力スムーズに移譲された。ラムセス1世老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年即位した次のセティ1世アマルナ時代失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世古代エジプト最大の王と呼ばれ彼の長い統治時代新王国最盛期迎えた紀元前1274年にはシリア北部オロンテス川ムワタリ2世率いヒッタイト衝突しカデシュの戦い起きた。この戦い痛み分け終わり、この時結ばれた平和条約現存する最古平和条約)はのちにヒッタイト首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世国内においてもさまざまな大規模建築物建設し下エジプトデルタ地方東部新首都ペル・ラムセス建設して遷都した。 その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民侵入撃退したが、彼の死後短期間在位の王が続き内政混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝絶え第20王朝新たに開かれた第20王朝第2代ラムセス3世最後偉大なファラオ呼ばれ、この時代新王国最後繁栄期迎えたが、彼の死後国勢下り坂向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプト終焉するまでの約1000年は、基本的に他国対す軍事的劣勢続いた

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新王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)

ファラオ」の記事における「新王国時代」の解説

中王国時代ピラミッドでは、どんなに対策をしても盗掘を防ぐことができなかったため、18王朝初期にはピラミッド造られなくなった代わりに第18王朝第3トトメス1世より新王国が終わるまで、墓は王家の谷造営されようになった。墓は地下深くまで掘った複数回廊部屋からなり内部壮麗な葬送文書を含む壁画埋められた。代わりに葬祭の場は墓より少し離れた場所に場所の関係で移された。トトメス3世葬祭殿英語版)などが好例である。しかしながら結果的にKV62のツタンカーメン墓を除いてすべて盗掘されてしまい、王たちの死後の安住の地とはならなかった。

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新王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:54 UTC 版)

ファラオの一覧」の記事における「新王国時代」の解説

ヒクソス追放され国土再統一されると、エジプト史上最も繁栄した時代迎える。トトメス1世3世はじめとする軍事秀でた王たちは対外遠征繰り返し幾つも小国宗主下に置いたその結果エジプト広大な領土抱えオリエント随一大国となり、北のヒッタイトメソポタミア諸国とも覇を競った同盟国からは多大な富や資源もたらされ、それらを元手に王たちは神々を讃えて盛んに寄進事業行った。しかし、この行為がやがて寺社勢力増大招き政治次第王家神官団の駆け引き様相呈したアメンヘテプ4世国家主神の座をすげ替える宗教改革断行し神官団への牽制図ったものの、十分な成果得られないまま頓挫し後継者ツタンカーメン若くして没する王統途絶えた軍隊支持集めて即位したホルエムヘブ低下した国力威信回復努め、続く第19王朝の王たちも軍事に力を注いだラムセス2世の代にはヒッタイトとの間に史上初の和平条約締結され国際的な秩序確立したラムセス2世70年近い治世エジプト史上における黄金期となり、アブ・シンベル神殿をはじめ古代エジプト代表する建築物多くがこの時代築かれた。 紀元前1200年頃、オリエント全域天災襲い、それに伴う民族移動余波受けて国際秩序崩壊エジプト動揺巻き込まれていく。近隣大国相次いで滅亡する中、エジプトラムセス3世の手腕で国家崩壊自体食い止められたものの、対外的な影響力喪失し衰退決定的となった短期間ファラオ交代し王権求心力を失うにつれ、神官団は公然と国政介入するようになり、遂に事実上君主として上エジプト所領統治するうになる。こうして生じた権力の分立はもはや解消されず、第20王朝途絶える繁栄の時代終わった王朝名在位(年)王名英字表記即位名第18王朝 前1550 - 1525年イアフメス1世Ahmose I) ネブペフティラー 前1525 - 1504年アメンヘテプ1世(Amenhotep I) ジェセルカラー 前1506 - 1492年トトメス1世(Thutmose I) アアケペルカラー 前1592 - 1579年トトメス2世(Thutmose II) アアケペルエンラー 前1498 - 1483年ハトシェプスト(女王)(Hatshepsut) マアトカラー 前1479 - 1425年トトメス3世(Thutmose III) メンケペルラー 前1427 - 1397年頃前1427 - 1401年アメンヘテプ2世(Amenhotep II) アアケペルウラー 前1397 - 1388年頃前1401 - 1391年トトメス4世(Thutmose IV) メンケペルウラー 前1388 - 1351年頃前1391 - 1353年アメンヘテプ3世(Amenhotep III) ネブマアトラー 前1351 - 1334年頃前1353 - 1336年アメンヘテプ4世(Amenhotep IV) ネフェルケペルウラー 前1336 - 1334年頃 スメンクカラー(Smenkhkare) アンクケペルウラー 前1334 - 1325年ツタンカーメン(Tutankhamun) ネブケペルウラー 前1325 - 1321年アイ(Ay) ケペルケペルウラー 前1321 - 1293年頃前1306 - 1293年ホルエムヘブ(Horemheb) ジェセルケペルウラー・セテプエンラー 第19王朝 前1293 - 1291年ラムセス1世(Ramesses I) メンペフティラー 前1291 - 1278年セティ1世(Seti I) メンマアトラー 前1279 - 1212年ラムセス2世(Ramesses II) ウセルマアトラー・セテプエンラー 前1212 - 1202年メルエンプタハ(Merneptah) バエンラー・メリネチェル 前1202 - 1199年アメンメセス(Amenmesse) メンミラー・セテプエンラー 前1199 - 1193年セティ2世(Seti II) ウセルケペルウラー・セテプエンラー 前1193 - 1187年サプタハ(Siptah) アクエンラー・セテプエンラー 前1187 - 1185年頃 タウセルト(女王)(Twosret) サトラー・メリアメン 第20王朝 前1185 - 1182年セトナクト(Setnakhte) ウセルカラー・セテプエンラー 前1182 - 1151年ラメセス3世(Ramesses III) ウセルマアトラー・メリアメン 前1151 - 1145年ラメセス4世(Ramesses IV) ヘカマアトラー 前1145 - 1141年ラメセス5世(Ramesses V) ウセルマアトラー 前1141 - 1133年ラメセス6世(Ramesses VI) ネブマアトラー・メリアメン 前1133 - 1126年ラメセス7世(Ramesses VII) ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンラー 前1133 - 1126年ラメセス8世(Ramesses VIII) ウセルマアトラー・アクエンアメン 前1126 - 1108年ラメセス9世(Ramesses IX) ネフェルカラー・セテプエンラー 前1108 - 1098年ラメセス10世(Ramesses X) ケペルマアトラー 前1098 - 1070年ラメセス11世(Ramesses XI) メンマアトラー・セテプエンプタハ

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