中王国
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「メンフィス (エジプト)」の記事における「中王国」の解説
中王国が始まると、ファラオの宮廷と首都はメンフィスから南方のテーベへと遷り、メンフィスは首都ではなくなった。ただし玉座は遷ったが、メンフィスは手工芸品の生産地区とプタハ神殿の西にある墓地の発見によって証明されるように、恐らく最も重要な商業と芸術の中心であり続けた。 また、この時期の建築的関心を証明する痕跡も見つかっている。アメンエムハト1世の大きな花崗岩の供物卓には、王による真実の主プタハのための社の建設が言及されている。アメンエムハト2世の名前が刻まれた別の岩塊ブロックはラムセス2世のピュロンに先行して建てられた巨大なモノリスの基礎として使用されていた。これらの王達は王室の公的行為を記録したパネルによって、鉱脈探しや国境を越えた軍事遠征、神に奉納する記念碑や像の建造を命じたことが知られている。プタハ神殿の遺跡ではセンウセルト2世の名前が刻まれたブロックに、メンフィスの神々に捧げる建築であることを示す碑文が付いている。更にこの場所からは後の新王国時代のファラオによって修復された第12王朝時代の多数の彫像が見つかっている。例としては、神殿の遺跡の中から回収され、後にラムセス2世の名の下に修復された2つの巨大な石像などがある。 ヘロドトスによって記録された言い伝えとディオドロスによれば、最後にアメンエムハト3世がプタハ神殿の北門を建造した。このファラオの業績に帰せられたこの建物は、フリンダーズ・ピートリーの指揮で実施されたこの地域の発掘調査で実際に発見され、ピートリーはその事実関係を確認した。また、この間サッカラの王家のピラミッドそばに建設されたプタハ大司祭のマスタバは、当時王権とメンフィスの神官団が密接に結びついていた事を示す証拠として注目に値する。第13王朝はこの流れを継続し、この王朝の数名のファラオはサッカラに埋葬された。 ヒクソスが力を増大させていった紀元前1650年頃、メンフィス市は敵に包囲され占領された。その占領の後、この古代の首都の多くの記念碑や彫像が取り外され、ヒクソスの王によって略奪されるか棄損された。彼等は新たな首都アヴァリスを飾るためそれらを運んだ。その後、テーベの第17王朝の王達によるプロパガンダの記録によって、半世紀後にテーベのエジプト人がエジプトを再征服した事が知られる。
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中王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:06 UTC 版)
ワジ・ハママトに第12王朝の時代に遡る石碑がある。この石碑には5つのカルトゥーシュ名が列挙されている。即ちクフ、ジェドエフラー、カフラー、バウエフラー、ジェドエホルである。王達の名前がカルトゥーシュの内側に記述されているので、バウエフラーとジェドエフホルはしばしば短期間王として統治したとされる。しかし、同時代史料は彼らを単なる王子としている。クフが含まれるこのリストは、彼と彼の後継者達が守護聖人として崇拝されたことを示しているのかもしれない。この説は、ワジ・ハママトの旅行者の巡礼地であるコプトスのクフの名前が書かれているアラバスター製の船のような発見によって後押しされている。 第13王朝時代に書かれた、クフについて語る文学作品の傑作は有名なウェストカー・パピルスであり、その中でクフは魔法の脅威を目撃し、魔法使いジェディから預言を受ける。物語の中で、クフには評価が難しい人物として描かれている。一面ではジェディが主張する魔法の力を試すために囚人の斬首を決定するよう時のように無慈悲に描かれている。他方では、クフは好奇心が強く合理的で寛容な人物として描写されている。彼はジェディの非難と囚人の斬首についての代替案を受け入れ、ジェディの預言の状況とその内容に疑問を呈し、最後にはこの魔法使いに気前良く報酬を与えている。 クフの矛盾した描写は今日、エジプト学者と歴史家達の大きな論争の対象である。特にアドルフ・エルマン、クルツ・ハインリヒ・シータ、ウォルフガング・ヘルクのような初期のエジプト学者と歴史家達は、クフの人格を無情な罪深い物と評価した。彼らは古代ギリシアのヘロドトスとディオドロスの記録に依っていたが、古代ギリシアの歴史家達は大げさでネガティブな人格イメージをクフについて述べている。これはエジプト人自身が常に伝承してきたクフの矛盾した(ポジティブな面も含む)伝統を無視している。 しかし、ディートリヒ・ウィルドゥングのような他のエジプト学者は、クフの命令を慈悲の行為として見る。ジェディが実際に彼の魔法のトリックを実行していたならば囚人は蘇っていたであろう。ウィルドゥングはジェディが(囚人の首を切る事を)拒否したのは、エジプト人が人命に対して示した尊敬を示すものだと考える。古代エジプト人は暗黒の魔術やそれに類する邪悪な行いに人命を用いるべきではないという見解を持っていた。ヴェレーナ・レッパー(Verena Lepper)とミリアム・リヒタイム(Miriam Lichtheim)はクフの評価し難い描写は物語の作者による意図的な物であろうと考えている。彼はこのキャラクターを神秘的に描きたかったのである。
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中王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
テレピヌの治世が「古王国」の最後となり、「中王国」として知られる長きにわたる弱小期が始まる。紀元前15世紀の期間は、現存する記録が疎らであるため殆ど分かっていない。中王国は、ヒッタイトの歴史における一つの時代というよりは、むしろ古王国から新王国への過渡期に当たる。 この期間のヒッタイトの歴史については殆ど分かっていないが、古王国の最後の君主テレピヌの治世は紀元前1500年まで続いた。それに引き続き詳細不明の「中王国」が70年続き、その後で新王国が誕生する。
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中王国
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「中王国」の解説
第11王朝時代に、テーベの王が全エジプトの統治者になる頃には、カルナックの地域はすでに聖地と見なされ、アメン崇拝のための何らかの構造物がおそらく統一前に存在し、そしてそれはカルナック地域のうちのどこかに位置していたと考えられる。エジプトの統一は、地方の部族神であったアメンにさらなる力と富をもたらし、そしてアメンは太陽神ラーと次第に習合(シンクレティズム、英: syncretism)して、アメン=ラーとなっていった。センウセルト1世(紀元前1965-1920年頃)の白い祠堂(英: White Chapel)や中王国時代の中庭は、神殿域のうち最も古い建造物遺跡である。聖池近くにおける発掘では計画集落が見つかっている。
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