中独合作前の中国とドイツの関係
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「中独合作」の記事における「中独合作前の中国とドイツの関係」の解説
初期の中国(清)‐ドイツ間の貿易は、シベリア経由の陸路を使っていたため、ロシア(ロシア帝国)政府により通過税がかけられていた。そのため、しだいに海上航路を使うようになっていった。始めて清を訪れたドイツ商船は、1750年代プロイセン王国のプロイセン王立アジア会社(Königlich-Preußische Asiatische Compagnie)のものだという。アロー戦争で結ばされた1858年の天津条約によって、プロイセンを含んだヨーロッパ各国と中国との貿易が活発化した。 19世紀後半、中国貿易の主導権はイギリスが握っていた。そのため、プロイセン王国宰相のビスマルクは、イギリスに対抗できるような貿易機構を熱望した。1885年、ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案を議会通過させた。同年、ビスマルクは清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込み、1890年にはドイツ・アジア銀行(徳華銀行(ドイツ語版))を設立する。これらの努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで第2位となった。 この頃のドイツは、中国に対してイギリスやフランスのように露骨な帝国主義的態度を取っていなかったので、清国政府はドイツとの協力関係を基にして近代化を進めようと考えた。1880年代、ドイツのフルカン株式会社シュテッティン造船所は、後の日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦定遠、鎮遠を造船している。また1880年代後半、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化に協力している。 日清戦争の敗北により、袁世凱はこれまでの洋務運動が間違っていたと考え、自強軍(Zìqiáng Jūn)、及び新建陸軍(Xīnjìan Lùjūn)建設のため、ドイツにさらなる支援を希望した。さらに軍備だけでなく、産業や技術面での支援も希望した。一方で、ドイツの対中国政策は1888年にヴィルヘルム2世が即位すると急変した。ヴィルヘルム2世は帝国主義的な政策を推進し、例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に軍を出し、1898年に清朝に山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。恐らく中独関係が最も冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺されたヴィルヘルム2世は怒って、遠征軍司令官に対して、反乱軍に対して「フン族の如く容赦ない攻撃を加えよ 」と命令した。(この事件を受けて、第一次世界大戦、第二次世界大戦のドイツ軍はしばしば「フン族」の蔑称で呼ばれた。) この期間、ドイツは中国の法整備にも大きな影響を与えた。清朝が終わる数年前、中国の革命家はドイツ民法を基にした民法草案の作成を始めた。ドイツ民法の骨子は、すでに日本でも採用されていた。この草案は、清朝崩壊前には施行されなかったが、1930年に中華民国民法として施行された。それは現在の台湾民法に引き継がれ、中華人民共和国の現行法にも影響を与えた。1985年に作られた中華人民共和国民法の原則は、ドイツ民法に基づいている。 ところが第一次世界大戦の前、中国とドイツの関係は一次的な停滞を見せた。その理由として、1902年の日英同盟や、1907年の三国協商(イギリス、フランス、ロシア)により、ドイツが政治的に孤立したことが挙げられる。ドイツはそれに対抗して、1907年にドイツ、中国、アメリカの協商を模索したが、実現しなかった。1912年、ドイツは中国の革命政府(中華民国)に600万マルク(en)の資金を提供し、中国に山東省での鉄道敷設を許可した。第一次世界大戦開戦後、ドイツは中国の租借地が日本に渡らないよう膠州湾の返還を申し出たが、それが完了する前に日本は青島と膠州湾に攻撃を仕掛けた。ドイツは極東にまで手が回らず、これに対して何の動きも取れなかった。 1917年8月14日、中国はドイツに対して宣戦布告して漢口、天津のドイツ租借地を回復し、そのほかのドイツ租借地の返還を約束させた。しかしながら、パリ講和会議での中国代表団の反対にも関わらず、ヴェルサイユ条約によってこれらの土地は日本に割譲されることが決まった。(中国ではこれを連合国側の裏切りと取る人が多く、後の五四運動へときっかけの一つとなった。)これらの動きにより、第一次世界大戦後の中国-ドイツ間貿易は大きな打撃を受け、1913年に300あったドイツ企業は、1919年には2にまで激減した。
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