エジプト中王国
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エジプト中王国(エジプトちゅうおうこく 紀元前2040年頃-紀元前18世紀頃)は、古代エジプト史の時代区分。第11王朝の王メンチュヘテプ2世(前2060年 - 前2010年)によるエジプト統一から、第12王朝の終了、または第13王朝終了(またはその治世の途中)までとする説がある[注釈 1]。しかし、第13王朝についての情報が不完全であるため、明確な時代境界線を引くことは難しい。本記事では第11王朝によるエジプト統一から第13王朝の終了までを取り扱うこととする。
注釈
- ^ 第12王朝の終了までとする例として『考古学から見た古代オリエント史』[1]、『ファラオ歴代誌』[2]。第13王朝の途中までとする例として『図説 大英博物館古代エジプト史』[3]。
- ^ ただし、第11王朝の宰相アメンエムハトと、第12王朝の初代アメンエムハト1世を同一人物とする確証はなく、慎重な立場を取る学者もいる[11]。
- ^ エジプト学の文脈では「アジア人」と言う用語は、レヴァントやアナトリア南岸の住民に言及する際に用いられる
- ^ 中エジプト語についてはhttps://web.archive.org/web/20030527021445/http://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.htmlに、西村洋子による詳細な解説がある。
- ^ ただし、中王国の文学作品を「プロパガンダ」と評する事には注意を要するという指摘もある。スペンサーは右のように述べる。「一方、この種の文書には「プロパガンダ」のレッテルが張られる事が多いが、作品の正確な成立年と読者層はわかっていないし、「プロパガンダ」という言葉が作られたのはヨーロッパで反宗教改革と反革命が叫ばれていた時代だったことを考えると、これをプロパガンダとみなすのは誤解の元でもある。(中略)こうした作品の制作に王が果たした役割については、生涯にかんする資料がないため、わかっていない。」[23]。
- ^ ケミイトと言う語は「完全なもの」、或いは「総括」などと訳される。筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, p.530
- ^ 在位中に行われる王の再生の儀式
出典
- ^ フィネガン 1983
- ^ クレイトン 1999
- ^ スペンサー 2009
- ^ 屋形ら 1998, p.423
- ^ フィネガン 1983, pp.266-267
- ^ 屋形ら 1998, p.422-423
- ^ スペンサー 2009, p.44
- ^ フィネガン 1983, p.270
- ^ クレイトン 1998, p.98
- ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.92
- ^ スペンサー 2009, p.45
- ^ フィネガン 1983, p.282
- ^ 屋形ら 1983, pp.438-439
- ^ フィネガン 1983, p.275
- ^ 屋形ら 1983, pp.436-437
- ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.100
- ^ 屋形ら 1998, pp.442-443
- ^ 屋形ら 1998, pp.444-445
- ^ ウィルキンソン 2015, p.96
- ^ 屋形ら 1998, pp.445-446
- ^ a b c d 屋形ら 1998, p.445
- ^ 屋形ら 1998, p.446
- ^ スペンサー 2009, p.45
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.463-464
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 アメンエムハト1世の教訓, pp.527-528
- ^ 屋形ら 1998, pp.447-448
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, p.530
- ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 「文学」, p. 475
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.403-406
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.437-439
- ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 難破した水夫の物語, p.425
- ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 「アムン、アムン=ラー」, pp. 42-44
- ^ a b 近藤 1997, pp.109-111
- ^ アビュドス巡礼についてはエジプト第1中間期の記事も参照。
- ^ ウィルキンソン 2015, p.97
- ^ ウィルキンソン 2015, p.96
- ^ クレイトン 1999, pp. 95-96
- ^ ウィルキンソン 2015, pp.115-121
- ^ 屋形ら 1998, p. 434
- ^ クレイトン 1999, pp. 117-118
- ^ クレイトン 1999, p. 96
- ^ ウィルキンソン 2015, pp.122-124
- ^ ウィルキンソン 2015, pp.134-137
- ^ クレイトン 1999, p. 103
- ^ 三笠宮 1991, pp.275-285
- ^ クレイトン 1999, p. 110
- 1 エジプト中王国とは
- 2 エジプト中王国の概要
- 3 概略
- 4 文化
- 5 中王国時代の遺構
- 6 脚注
中王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:54 UTC 版)
エジプト中王国時代になると、メンフィスは首都ではなくなり、歴代のファラオたちも他所に埋葬施設を建設するようになった。そのため、サッカラのこの時代の遺跡は王家以外のものが若干見つかっている程度である。
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中王国時代
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第12王朝(前1991-前1802)の初期、中王国時代が始まった時、ファラオ・センウセルト1世(前1971-前1926)はサフラーの像を造らせた。この像はカルナックの神殿にあり、恐らく亡き王達の群像の一部であったであろう。 このサフラー像は現在カイロのエジプト考古学博物館にある(カタログナンバー CG42004)。像は黒い花崗岩でできており、50センチメートルの高さである。サフラーはプリーツスカートとラウンドカーリーの付け毛を身に着けて玉座に座っている。玉座の両サイドにサフラーの彫像を造らせたのがセンウセルト1世であることを示す碑文がある。 サフラーが中王国時代の間忘れ去られる事がなかった証はウェストカー・パピルスであり、これは第12王朝時代に書かれた。このパピルスは第5王朝の起源についての神話的な物語を伝えており、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー・カカイをラーとラーデジェト(英語版)と言う名の女性の間の3人兄弟として登場させている。
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中王国時代(第11 - 12王朝)
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「古代エジプト」の記事における「中王国時代(第11 - 12王朝)」の解説
紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。 紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。 センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。 つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。
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中王国時代
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古王国時代を「神権国家」とするならば、中王国時代は「庶民国家」であると杉勇は提唱する。一部の教育を受けた庶民層は王によって登用され、門閥貴族に対する勢力として、センウセレト3世の時代の王権強化につながった。しかしながら、庶民の地位向上も中央集権的国家体制を目指す王権側の意図と合致したから実現したのであり、中王国国家の本質はあくまでも「神王理念」である。
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中王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)
この時代においては、創造神はすべての人間を平等に作ったという原則が葬祭の場においても適用され、王と臣民の間に存在していた来世の質の違いは解消された。神王のためにのみ作られたピラミッド・テキストに対して、棺に刻まれた葬送文書は財力さえ許さば身分関係なく使用できたようである。それでも、王はその権力を用い、庶民とは一線を画した葬送習慣を行った。例えば、第11王朝のメンチュホテプ2世はディール・エル・バハリにきわめて独創的で、他に類が見られない葬祭殿複合体を築いたことで有名である。 この建築物は断崖絶壁の岩山の前に築かれた葬祭殿と周囲の空墓からなり、メンチュホテプ2世は葬祭殿最奥の列柱室から岩山の下に向かって115mほど下った隠された玄室に「上エジプト王」として葬られた。逆に、空墓からは「下エジプト王」として赤冠をかぶった王の像が発見されている。なお、これに倣い以降の王もこのタイプの墓の建造を計画したが、どれも完成には至らなかったようである。 この時代は、ピラミッドがエジプト人により最後に建造された時代にあたるが、規模でも建築技術でも古王国時代に劣っていた。しかし、崩れないよう墓室は非常に硬い建材を用いて、細心の注意を払って建造された模様である。
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中王国時代
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メンチュヘテプ2世によって南北王朝は統一を見せ、紀元前2060年ごろより中王国時代が始まった。以後、テーベは1000年の間、エジプトの政治の中心として栄え、守護神アメンを信仰する国家がエジプトを支配した。 統一を成し遂げた第11王朝の諸王は中央集権政治の再生を目指したがアメンエムハト1世のクーデターによって倒れ、紀元前1991年ごろ第12王朝が成立した。アメンエムハト1世は地方有力貴族に各地方知事の地位を与えて自由裁量権を認め、一方で首都をテーベからラーフーンへと移し、王権復古のための経済的基盤の強化に着手した。この時代には対外交易も活発になり、ビュブロス、クレタ、プント、シナイなどへしばしば通商隊が派遣されている。また、ヌビア遠征などの領土拡大も試みられ、センウセレト3世の時代には第2急湍地方まで領土を拡大している。 第12王朝最後のファラオとして統治したのは女王であったセベクネフェルであるが、クレイトンはこの事実について「女性が王位継承したという事実は後継者に問題があった可能性がある」と指摘している。 王朝名在位(年)王名(英字表記)即位名第11王朝 前2060 - 2010年頃 メンチュヘテプ2世(Mentuhotep II) ネブヘペトラー 前2010 - 1998年頃 メンチュヘテプ3世(Mentuhotep III) スアンクカラー 前1997 - 1991年頃 メンチュヘテプ4世(Mentuhotep IV) ネブタウイラー 第12王朝 前1991 - 1962年頃 アメンエムハト1世(Amenemhat I) セヘテプイブラー 前1971 - 1926年頃 センウセレト1世(Senusret I) ケペルカラー 前1929 - 1895年頃 アメンエムハト2世(Amenemhat II) ネブカウラー 前1897 - 1878年頃 センウセレト2世(Senusret II) カーケペルラー 前1878 - 1841年頃 センウセレト3世(Senusret III) カーカウラー 前1842 - 1797年頃/前1860 - 1814年頃 アメンエムハト3世(Amenemhat III) ニマアトラー 前1798 - 1786年頃/前1815 - 1806年頃 アメンエムハト4世(Amenemhat IV) マアケルウラー 前1785 - 1782年頃/前1806 - 1802年頃 セベクネフェル(女王)(Sobekneferu) セベクカラー
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