中王国時代とは? わかりやすく解説

エジプト中王国

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:35 UTC 版)

エジプト中王国(エジプトちゅうおうこく 紀元前2040年頃-紀元前18世紀頃)は、古代エジプト史の時代区分。第11王朝メンチュヘテプ2世(前2060年 - 前2010年)によるエジプト統一から、第12王朝の終了、または第13王朝終了(またはその治世の途中)までとする説がある[注釈 1]。しかし、第13王朝についての情報が不完全であるため、明確な時代境界線を引くことは難しい。本記事では第11王朝によるエジプト統一から第13王朝の終了までを取り扱うこととする。


注釈

  1. ^ 第12王朝の終了までとする例として『考古学から見た古代オリエント史』[1]、『ファラオ歴代誌』[2]。第13王朝の途中までとする例として『図説 大英博物館古代エジプト史』[3]
  2. ^ ただし、第11王朝の宰相アメンエムハトと、第12王朝の初代アメンエムハト1世を同一人物とする確証はなく、慎重な立場を取る学者もいる[11]
  3. ^ エジプト学の文脈では「アジア人」と言う用語は、レヴァントやアナトリア南岸の住民に言及する際に用いられる
  4. ^ 中エジプト語についてはhttps://web.archive.org/web/20030527021445/http://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.htmlに、西村洋子による詳細な解説がある。
  5. ^ ただし、中王国の文学作品を「プロパガンダ」と評する事には注意を要するという指摘もある。スペンサーは右のように述べる。「一方、この種の文書には「プロパガンダ」のレッテルが張られる事が多いが、作品の正確な成立年と読者層はわかっていないし、「プロパガンダ」という言葉が作られたのはヨーロッパで反宗教改革と反革命が叫ばれていた時代だったことを考えると、これをプロパガンダとみなすのは誤解の元でもある。(中略)こうした作品の制作に王が果たした役割については、生涯にかんする資料がないため、わかっていない。」[23]
  6. ^ ケミイトと言う語は「完全なもの」、或いは「総括」などと訳される。筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, p.530
  7. ^ 在位中に行われる王の再生の儀式

出典

  1. ^ フィネガン 1983
  2. ^ クレイトン 1999
  3. ^ スペンサー 2009
  4. ^ 屋形ら 1998, p.423
  5. ^ フィネガン 1983, pp.266-267
  6. ^ 屋形ら 1998, p.422-423
  7. ^ スペンサー 2009, p.44
  8. ^ フィネガン 1983, p.270
  9. ^ クレイトン 1998, p.98
  10. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.92
  11. ^ スペンサー 2009, p.45
  12. ^ フィネガン 1983, p.282
  13. ^ 屋形ら 1983, pp.438-439
  14. ^ フィネガン 1983, p.275
  15. ^ 屋形ら 1983, pp.436-437
  16. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.100
  17. ^ 屋形ら 1998, pp.442-443
  18. ^ 屋形ら 1998, pp.444-445
  19. ^ ウィルキンソン 2015, p.96
  20. ^ 屋形ら 1998, pp.445-446
  21. ^ a b c d 屋形ら 1998, p.445
  22. ^ 屋形ら 1998, p.446
  23. ^ スペンサー 2009, p.45
  24. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.463-464
  25. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 アメンエムハト1世の教訓, pp.527-528
  26. ^ 屋形ら 1998, pp.447-448
  27. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, p.530
  28. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 「文学」, p. 475
  29. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.403-406
  30. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集, pp.437-439
  31. ^ 筑摩世界文学大系1 古代オリエント集 難破した水夫の物語, p.425
  32. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 「アムン、アムン=ラー」, pp. 42-44
  33. ^ a b 近藤 1997, pp.109-111
  34. ^ アビュドス巡礼についてはエジプト第1中間期の記事も参照。
  35. ^ ウィルキンソン 2015, p.97
  36. ^ ウィルキンソン 2015, p.96
  37. ^ クレイトン 1999, pp. 95-96
  38. ^ ウィルキンソン 2015, pp.115-121
  39. ^ 屋形ら 1998, p. 434
  40. ^ クレイトン 1999, pp. 117-118
  41. ^ クレイトン 1999, p. 96
  42. ^ ウィルキンソン 2015, pp.122-124
  43. ^ ウィルキンソン 2015, pp.134-137
  44. ^ クレイトン 1999, p. 103
  45. ^ 三笠宮 1991, pp.275-285
  46. ^ クレイトン 1999, p. 110


「エジプト中王国」の続きの解説一覧

中王国時代

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サッカラ」の記事における「中王国時代」の解説

エジプト中王国時代になると、メンフィス首都ではなくなり、歴代ファラオたちも他所に埋葬施設建設するようになった。そのため、サッカラのこの時代遺跡王家以外のものが若干つかっている程度である。

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中王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 21:36 UTC 版)

サフラー」の記事における「中王国時代」の解説

第12王朝(前1991-前1802)の初期、中王国時代が始まった時、ファラオ・センウセルト1世(前1971-前1926)はサフラーの像を造らせた。この像はカルナック神殿にあり、恐らく亡き王達群像一部であったであろう。 このサフラー像は現在カイロエジプト考古学博物館にある(カタログナンバー CG42004)。像は黒い花崗岩でできており、50センチメートルの高さである。サフラープリーツスカートとラウンドカーリーの付け毛を身に着け玉座座っている。玉座両サイドサフラー彫像を造らせたのがセンウセルト1世であることを示す碑文がある。 サフラーが中王国時代の間忘れ去られる事がなかった証はウェストカー・パピルスであり、これは第12王朝時代書かれた。このパピルス第5王朝起源について神話的な物語伝えており、ウセルカフサフラーネフェルイルカラー・カカイラーとラーデジェト(英語版と言う名の女性の間の3人兄弟として登場させている。

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中王国時代(第11 - 12王朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:13 UTC 版)

古代エジプト」の記事における「中王国時代(第11 - 12王朝)」の解説

紀元前2060年頃に第11王朝メンチュヘテプ2世即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝後継であるエジプト第10王朝打倒してエジプト再び統一し、エジプト中王国時代始まった首都引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッド造営復活したが、第4王朝のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガ多用したものが主となった紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝開かれ首都メンフィス近郊イチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き国内開発急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川支流注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地開発であり、センウセルト2世時代着工した干拓工事王朝後期アメンエムハト3世時代完成しファイユーム広大な穀倉地帯となったセンウセレト2世紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッドラフーンのピラミッド)を造営している。中王国ヌビア対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世ヌビアおよびシリア遠征した。センウセレト3世名君として知られており、国内においては州侯勢力削ぎ行政改革行って国王権力拡大している。 つづくアメンエムハト3世期に政権安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地開発完成し、またハワーラのピラミッド造営されている。しかし彼の死後短命な政権続き紀元前1782年頃には第12王朝崩壊して中王国期も終焉迎えた

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中王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)

ファラオ」の記事における「中王国時代」の解説

古王国時代を「神権国家」とするならば、中王国時代は「庶民国家」であると杉勇提唱する一部教育受けた庶民層は王によって登用され門閥貴族対す勢力として、センウセレト3世時代王権強化つながったしかしながら庶民地位向上も中央集権的国家体制目指す王権側の意図合致したから実現したのであり、中王国国家本質あくまでも神王理念」である。

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中王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)

ファラオ」の記事における「中王国時代」の解説

この時代においては創造神すべての人間平等に作ったという原則葬祭の場においても適用され、王と臣民の間に存在していた来世の質の違い解消された。神王のためにのみ作られピラミッド・テキストに対して刻まれ葬送文書財力さえ許さば身分関係なく使用できたようである。それでも、王はその権力用い庶民とは一線を画し葬送習慣行った例えば、第11王朝メンチュホテプ2世はディール・エル・バハリにきわめて独創的で、他に類が見られない葬祭殿複合体築いたことで有名である。 この建築物断崖絶壁岩山前に築かれ葬祭殿周囲の空墓からなりメンチュホテプ2世葬祭殿最奥列柱室から岩山の下に向かって115mほど下った隠され玄室に「上エジプト王」として葬られた。逆に、空墓からは「下エジプト王」として赤冠をかぶった王の像が発見されている。なお、これに倣い以降の王もこのタイプの墓の建造計画したが、どれも完成には至らなかったようである。 この時代は、ピラミッドエジプト人により最後に建造され時代にあたるが、規模でも建築技術でも古王国時代劣っていた。しかし、崩れないよう墓室は非常に硬い建材用いて細心の注意払って建造され模様である。

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中王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:54 UTC 版)

ファラオの一覧」の記事における「中王国時代」の解説

メンチュヘテプ2世によって南北王朝統一見せ紀元前2060年ごろより中王国時代が始まった以後テーベ1000年の間、エジプト政治の中心として栄え守護神アメン信仰する国家エジプト支配した統一成し遂げた第11王朝諸王中央集権政治再生目指したがアメンエムハト1世クーデターによって倒れ紀元前1991年ごろ第12王朝成立したアメンエムハト1世地方有力貴族各地方知事地位与えて自由裁量認め一方で首都テーベからラーフーンへと移し王権復古のための経済的基盤強化着手した。この時代には対外交易活発になり、ビュブロスクレタプントシナイなどへしばしば通商隊が派遣されている。また、ヌビア遠征などの領土拡大試みられセンウセレト3世時代には第2急湍地方まで領土拡大している。 第12王朝最後ファラオとして統治したのは女王であったセベクネフェルであるが、クレイトンはこの事実について「女性王位継承したという事実は後継者問題があった可能性がある」と指摘している。 王朝名在位(年)王名英字表記即位名第11王朝 前2060 - 2010年頃 メンチュヘテプ2世(Mentuhotep II) ネブヘペトラー 前2010 - 1998年メンチュヘテプ3世(Mentuhotep III) スアンクカラー 前1997 - 1991年メンチュヘテプ4世(Mentuhotep IV) ネブタウイラー 第12王朝1991 - 1962年アメンエムハト1世(Amenemhat I) セヘテプイブラー 前1971 - 1926年センウセレト1世(Senusret I) ケペルカラー 前1929 - 1895年アメンエムハト2世(Amenemhat II) ネブカウラー 前1897 - 1878年センウセレト2世(Senusret II) カーケペルラー 前1878 - 1841年センウセレト3世(Senusret III) カーカウラー 前1842 - 1797年頃/前1860 - 1814年アメンエムハト3世(Amenemhat III) ニマアトラー 前1798 - 1786年頃/前1815 - 1806年アメンエムハト4世(Amenemhat IV) マアケルウラー 前1785 - 1782年頃/前1806 - 1802年セベクネフェル(女王)(Sobekneferu) セベクカラー

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