ファイユーム【Faiyum】
ファイユーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/11 02:47 UTC 版)
ファイユーム الفيوم Faiyum | |
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位置 | |
座標 : 北緯29度18分 東経30度50分 / 北緯29.300度 東経30.833度 | |
行政 | |
国 | ![]() |
県 | ファイユーム県 |
市 | ファイユーム |
地理 | |
面積 | |
市域 | ? km2 |
標高 | 23 m |
人口 | |
人口 | (2006年現在) |
市域 | 316,772人 |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
ファイユーム(Faiyum)は、エジプトの都市。カイロから南西に130km離れたファイユーム・オアシスにあり、同地方最大の都市。ファイユーム県の県都である。
概要
ファイユーム地方はナイル川の支流のひとつが注ぎ込んでできたカルーン湖の近くにあり、肥沃な農地が広がっていたため、エジプト古王国時代から人が住み着いていた。現在のファイユームの町ができたのはエジプト中王国時代であり、当時はシェデト(ギリシア語・クロコディポリス)という名だった。中王国時代にはファイユームは墳墓の地として多数のピラミッドが作られ、現在も多数残存している。その後、プトレマイオス朝時代にはアルシノエ県(英: Arsinoe[1])という名で知られていた。エジプトがローマ帝国の属州に編入された紀元前後には「ミイラ肖像画」が作られるようになり、ファイユームのハワーラ (en:Hawara) とアンティノポリス (en:Antinoopolis) から多数出土している。そのためミイラ肖像画の総称として「ファイユームのミイラ肖像画」と呼ばれることもある。
現在でも肥沃な農地と豊富な水に恵まれており、その水を分配していた水車は現在でもファイユームの名物となっている。近隣で取れた綿花や小麦などの集散地となっており、また、カイロからの交通の便もよく、ナイル河谷からは鉄道も通じている。
脚注
- ^ en:Arsinoe (Gulf of Suez)とは異なる。
関連項目
外部リンク
ファイユーム
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「フリンダーズ・ピートリー」の記事における「ファイユーム」の解説
その後彼はファイユームの墳墓遺跡に赴き、特にこれまでよく研究されていなかった紀元前30年以降の墳墓に興味を持った。60基の未発掘の肖像画(ミイラ肖像画)のある墓を調査し、ミイラの上の碑銘から埋葬された者やその家族について明らかにした。オギュスト・マリエットの取り決めに基づき、肖像画の50%はエジプト考古学博物館に送った。しかしマリエットの後継者ガストン・マスペロはそれらにあまり重きを置かず、博物館の裏庭に放置していた。これに怒ったピートリーはマスペロに最良の12点を同博物館用に選ぶよう要求し、残りの48点をロンドンに送って、大英博物館がそれらを収蔵した。 その後の調査で、ピートリーはファラオ時代の墓製作者の村を発見した。
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