ファイユームの占領とギーザにおける敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:36 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「ファイユームの占領とギーザにおける敗北」の解説
結局、フスタートへ渡河することができなかったカーイムは軍隊の大部分を率いてタキーンの防衛地域を迂回し、食糧を確保することができる肥沃なファイユーム・オアシス(英語版)へ移動した。当初クターマ族はこの地域を略奪して回ったが、カーイムは秩序を回復し、住民に規則に従った徴税を課した。 しかしこの時、後方に残ってギーザのファーティマ朝軍の大部分を指揮していたフバーサがカーイムに指揮の交代を命じられたことで両者の関係が悪化した。そして915年1月8日にギーザで起こった大規模な戦闘でファーティマ朝軍は決定的な敗北を喫した。ファーティマ朝側の複数の史料では、この敗北はカーイムから踏みとどまるように督戦されていたにもかかわらず、戦場から逃亡したフバーサに責任があるとしている点で全ての説明が一致している。親ファーティマ朝の立場によるいくつかの説明では、カーイムが三回にわたる攻撃を仕掛け、敵軍に多くの死傷者を出したとしているが、このような潤色もこの戦いが大惨事であったという事実を隠すには至っていない。軍隊が崩壊したことでカーイムは撤退し、1月23日にアレクサンドリアに入った。
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