アッバース朝によるアレクサンドリアとファイユームの奪回とカーイムの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:34 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「アッバース朝によるアレクサンドリアとファイユームの奪回とカーイムの撤退」の解説
しかし、921年の春の終わりにはついにサマルが艦隊を率いてナイル川を下り、アレクサンドリアへ向かった。一方でムウニスは配下の将軍の一人をファイユームへの攻撃のために派遣した。アッバース朝軍は921年の5月か6月にクターマ族の守備隊から比較的容易にアレクサンドリアを奪回し、守備隊は都市に多くの物資や装備を残していった。サマルは都市の住民をロゼッタへ退避させ、自身の艦隊もその後に続いた。 6月28日にムウニスとタキーンはサマルの艦隊とともに全軍でファイユームへの攻撃に向けて出発した。アッバース朝の陸軍と艦隊は協同してラーフーン(英語版)に位置するファイユームとナイル川を結ぶ唯一の分岐地点を封鎖し、オアシスにいるカーイムとその軍隊を他の地域から孤立させた。そしてアッバース朝軍がオアシスへ進軍を始めると、7月8日にカーイムは撤退を命じた。重装備はすべて残していき、砂漠を抜けてバルカへ続く海岸沿いの道を目指したものの、多くの者が命を落とす過酷な行軍となった。
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