アッバース朝の反撃と海戦での勝利
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「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「アッバース朝の反撃と海戦での勝利」の解説
アレクサンドリア フスタート ギーザ ファイユーム・オアシス アブキール ロゼッタ ダマンフール 下エジプトにおける軍事行動の関連地の地図 一方でファーティマ朝軍を率いるカーイムは、かつてのトゥールーン朝のワズィール(宰相)であるアブー・バクル・ムハンマド・ブン・アリー・アル=マーザラーイー(英語版)をはじめとする何人かの要人と連絡を取り合っていたにもかかわらず、914年の時とは異なり、フスタートの駐屯地の弱点を突いてギーザを襲撃するような動きは見せなかった。また、その年の残りの期間は増援部隊の到着が続いていたためにアレクサンドリアに留まり続けた。これらの援軍の中には宦官のスライマーンが率いる80隻のファーティマ朝の艦隊(英語版)も含まれていた。 アッバース朝の宮廷もファーティマ朝の侵攻の報を受けて軍隊を動員した。最初の侵攻の時と同様にムウニス・アル=ハーディムが軍の総司令官となり、ムウニスは920年2月23日にバグダードを発った。 その他のアッバース朝の対応として、サマル・アッ=ドゥラフィー(英語版)の統率するタルスースの艦隊にエジプトへの出航が命じられたが、この艦隊はエジプトの防衛に重要な役割を果たすことになった。サマルはギリシアの火を積み込んだ25隻の艦隊を率いてエジプトに到着すると、ファーティマ朝の艦隊がナイル川のロゼッタの支流に侵入する試みを阻止しようとした。サマルの艦隊は3月12日にアブキール(英語版)付近で風に煽られて岸辺へ流されたファーティマ朝の艦隊に圧倒的な勝利を収めた。大半のファーティマ朝の船員は殺されるか捕らえられ、捕虜はナイル川沿いのアル=マクスに連行された。タキーンはそこでほとんどの一般の船員を解放したが、一方で提督のスライマーンと117人の将校はフスタートの周辺で見せしめに引き回され、さらにおよそ700人のクターマ族と黒人の近衛兵(Zawila)が暴徒へ引き渡されてリンチにかけられた。 ムウニスは5月25日にフスタートに到着し、3,000人の兵を率いてギーザに陣を構えた。さらに北へはムハンマド・ブン・トゥグジュが守るナイルデルタ北西部のダマンフールまで分遣隊を派遣し、同様に予想されたファーティマ朝軍による上エジプトへの侵入を防ぐために南方にも分遣隊を派遣した。
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