アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 04:58 UTC 版)
「バグダード」の記事における「アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退」の解説
1055年、中央アジア出身の王朝セルジューク朝がバグダードを占領した。セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、ブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐し、第26代カリフのカーイム(1031年 - 1075年)より「スルタン」(「権力」)の称号 を受け、バグダードのカリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝の宰相ニザームルムルクは、シーア派勢力の拡大に対抗してスンナ派のウラマー(法学者)を養成する必要から、1067年、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠したマドラサ(ニザーミーヤ学院)を建設した。 しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいにカイロにうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、イクター制の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった。 1258年、モンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した(バグダードの戦い)。チンギス・カンの孫にあたるモンゴルの将フレグは最後のカリフムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる。豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。1234年完成のムスタンスィリーヤ学院や12世紀の城門のひとつバーブ・アルワスターニーなどを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の遺構はごく少数しか遺存していない。 14世紀にモンゴルより独立したジャライル朝は、ミルジャン・モスク(1358年)や現在イスラーム博物館となっているハーン・マルジャーンなどの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も完全にマムルーク朝の都カイロにうつり、メソポタミア地方における一地方都市へと転落していった。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者イブン=バットゥータがバグダードを訪れている。こののち、バグダードは、14世紀末と15世紀初め、2度にわたってティムールの略奪を受け、15世紀なかばには廃墟同然になってしまった。 アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、16世紀から17世紀にかけては、トルコのオスマン朝のスルタンとペルシアのサファヴィー朝のシャーとのあいだで争奪の対象となった。すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。 17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守アフメット・パシャおよびハサン・パシャは、行政機構の内部にシルカシア人マムルークの奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した。
※この「アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退」の解説は、「バグダード」の解説の一部です。
「アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退」を含む「バグダード」の記事については、「バグダード」の概要を参照ください。
- アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退のページへのリンク