アッバース朝の解体とマムルーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:05 UTC 版)
「マムルーク」の記事における「アッバース朝の解体とマムルーク」の解説
マムルークの多くは遊牧民の出身で幼い頃から乗馬に慣れ親しんでいたので騎射に優れており、また素朴で忠誠心が深いことから支配者によって盛んに登用されることとなった。特に、9世紀末に中央アジアでアッバース朝から半自立の政権を築いたサーマーン朝はテュルク系の遊牧民と境を接していたことから大々的にマムルークの採用を行ったが、さらに中央アジアとイランの境であるアム川にマムルーク輸出のための税関を設けて国家事業としてマムルークの中継貿易を行った。サーマーン朝支配下のマー・ワラー・アンナフル(現ウズベキスタン中部)にはマムルークの養成施設が設立され、親元を離れて売却されてきた若い遊牧民に対してイスラム教への改宗や軍人としての教育が施された。 サーマーン朝を経てイスラム世界に入ったマムルークたちはカリフのみならずイスラム世界の各地の有力者たちに購入されて優れた軍事力を提供することになり、アッバース朝の分裂傾向を深める結果となった。またマムルークの重用の結果、解放されたマムルークの中からアミールと呼ばれる中央・地方の軍司令官に上った有力者の間から、地方で自立の政権を形成したり、中央でカリフに代わって政権を握る者すら現れた。9世紀後半にエジプトでアッバース朝から自立したトゥールーン朝、10世紀後半にアフガニスタンでサーマーン朝から自立したガズナ朝はいずれもマムルーク出身のアミールによって樹立された政権であり、10世紀中頃にアッバース朝の都バグダードで権力を握るマムルークのアミールを倒してカリフの保護権を掌握したブワイフ朝も、軍事力としてはマムルークに多くを依存していた。 ブワイフ朝を滅ぼしてイスラム世界の中央部を広く支配したセルジューク朝は、トゥルクマーンと呼ばれるマムルークとしてではなく部族組織を保ったままイスラム世界にやってきたテュルク系の遊牧民の出身で、王朝の建設においても部族組織に裏付けられた遊牧民の軍事力に支えられていたが、イスラム世界の中央に定着すると部族制社会の分権的・分裂的傾向を抑えるために盛んにマムルークを購入して君主(スルターン)の直属軍事力とし、テュルク系の支配者がテュルク系のマムルークを奴隷として利用するようになった。セルジューク朝はブワイフ朝にならってマムルークの司令官にイクター(徴税権)を授与して経済的基盤を身に付けさせ、地方の支配者として派遣された王子たちに君主子飼いのアミールをアタベク(傅役)として附属させて地方の事実上の支配者に据えた。こうしてマムルークはセルジューク朝の支配機構を支えたが、やがてセルジューク朝が衰退に向かうとイクターが世襲される傾向が生まれて分権化の傾向が進み、さらに各地でアタベクが自立してアタベク政権が乱立、セルジューク朝は分裂した。
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