アッバース朝カリフとの抗争とは? わかりやすく解説

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アッバース朝カリフとの抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)

ザンギー」の記事における「アッバース朝カリフとの抗争」の解説

その後一旦、ザンギー大セルジューク朝後継戦争巻き込まれることになる。ザンギー味方だったマフムード2世1132年に世を去り、またもカリフのアル・ムスタルシドが勢力盛り返しセルジューク一族同士争いに火を注いだザンギーはアル・ムスタルシドをもう一度破るべくバグダード都に向かったが、都の北、ティクリート郊外カリフ自身待ち伏せにあった。彼は敗北し捕らえられる寸前カリフ側の軍にいたティクリート司令官であるナジムッディーン・アイユーブという若い武将に命を救われモースル逃れることができた。アイユーブは後にザンギー部下となり、その息子ザンギー息子ヌールッディーン仕えエルサレムムスリムの手取り戻し名を轟かせサラーフッディーンサラディン)である。 ザンギー破ったアル・ムスタルシドは、1133年大セルジューク朝後継者となったマスウード対し盛大な儀式とともに忠誠を誓わせてスルタン位を承認し絶頂期にあった。さらに彼はザンギー討伐しようとモースルに向かうが、ザンギー数ヶ月に渡るモースル包囲戦勝利する。この失敗でアル・ムスタルシドの権威落ち味方だった武将民衆見放され、ついに1135年マスウード敗れ捕虜となり、2ヶ月抑留の後に惨殺された。

※この「アッバース朝カリフとの抗争」の解説は、「ザンギー」の解説の一部です。
「アッバース朝カリフとの抗争」を含む「ザンギー」の記事については、「ザンギー」の概要を参照ください。

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