アッバース朝への圧迫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 04:14 UTC 版)
「アラーウッディーン・ムハンマド」の記事における「アッバース朝への圧迫」の解説
アラーウッディーンとの関係を悪化させたアリー・シャーが、アラーウッディーンの即位直後にホラズム・シャー朝と交戦したゴール朝に亡命する事件が起きる。アリー・シャーが亡命した当時のゴール朝は、シハーブッディーンの死後、クトゥブッディーン・アイバクを初めとする総督たちの独立によって領土が縮小していた。ゴール朝のスルターン・ギヤースッディーン・マフムードが支配権を及ぼしていたのはゴール地方のみであり、彼はホラズム・シャー朝に貢納を行っていた。ヒジュラ暦609年(1212年 - 1213年)にギヤースッディーン・マフムードが宮廷内で刺殺される事件が起き、当時の人々はアラーウッディーンの関与を噂し合った。ギヤースッディーン・マフムードの死後にアリー・シャーがゴール朝の後継者を自称するが、アリー・シャーはアラーウッディーンが遣わした刺客によって暗殺され、ゴール朝の領土はホラズム・シャー朝に併合された。1215年にガズナに独立勢力を築いていたゴール朝の総督タージ・ウッディーン・ユルドゥズに勝利しガズナを占領するが、同地でカリフ・ナースィルがゴール朝のスルターンらに宛てて書いた書簡が発見される。書簡にはホラズム・シャー朝の動向に注意を払い、ホラズム領への攻撃を扇動する文が書かれており、アラーウッディーンはナースィルに強い敵意を抱いた。 同年にアラーウッディーンはアッバース朝に対して、金曜礼拝のフトバ(英語版)への自身の名の挿入、スルターンの称号の授与、バグダードへの代官の設置を要求し、セルジューク朝のスルターン達と同じ特権を得ようとした。だが、要求は拒絶され、アラーウッディーンはウラマー達の同意を得て、アリーの後裔をカリフに擁立することを図った。アッバース朝の要請を受けてイラン西部(イラーク・アジャミー)に進軍したアタベク政権、シーラーズを統治するサルガル朝、タブリーズを統治するイル・ドュグュズ朝(イルデギズ朝)の二つの勢力を破り、両国を臣従国とした。ヒジュラ暦606年(1217年 - 1218年)にイラーク・アジャミーを支配下に置いたアラーウッディーンはハマダーンを拠点とし、アッバース朝から派遣された使者の和平の提案も容れなかった。しかし、アサダーバード(英語版)で厳寒と降雪に見舞われると共に、現地のトルコ人とクルド人の攻撃を受けてアラーウッディーンの計画に狂いが出る。そして、東方のモンゴル帝国からの使節に応対するため、子のルクヌッディーンにイラーク・アジャミーの統治を委任し、アラーウッディーンはトルキスタンに帰国した。 アラーウッディーンは、息子たちの所領を以下のように定めた。 ジャラールッディーン・メングベルディー:現在のイラン東部からアフガニスタンにかけての地域(旧ゴール朝領のガズナ、バーミヤーン、ゴールなど) ギヤースッディーン・ピール・シャー:王国東部(ケルマーン、キシュ、マクラーン(英語版)の一部地域) ルクヌッディーン・グールシャーンチー:イラーク・アジャミー ウズラグ・シャー:ホラズム、ホラーサーン、マーザンダラーン この王子たちの中で、アラーウッディーンが後継者に指名したのは、末子のウズラグ・シャーだった。ウズラグ・シャーの生母はテルケン・ハトゥンと同じバヤウト部の出身であり、アラーウッディーンはウズラグ・シャーを寵愛する母の意思を尊重して彼を選んだ。
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