アッバース朝下のジャアファル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:10 UTC 版)
「ジャアファル・サーディク」の記事における「アッバース朝下のジャアファル」の解説
ウマイヤ朝にかわる新たな統治者アッバース朝は、ムハンマドの伯父のアッバースの子孫としての立場を基礎として権力の座に昇った。したがってムハンマドの子孫であり、多くの人々にカリフ位によりふさわしい権利をもつと見られたジャアファルは、アッバース朝の多大な嫌疑の対象であった。ジャアファルは綿密に監視され、時にはその信徒との紐帯を断ち切るために獄に下されることもあった。しかしどこに身をおこうと、なお迫害に耐え、研究と著述を続けたのである。 ジャアファル・アッ=サーディクが没したのは765年12月4日のことである。毒殺であったという者もあり、シーア派イマームの前任者たち同様、殉教者とされた。マディーナの有名な墓地ジャンナトゥル・バキー墓地にその身が葬られている。
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