アッバース朝成立後
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「アブー・ムスリム」の記事における「アッバース朝成立後」の解説
アッバース朝成立後にアブー・ムスリムは軍功によってホラーサーン総督に任命され、アミール・アル=ムハンマド(ムハンマド家の司令官)の称号を得た。その後のウマイヤ勢力の追撃にアブー・ムスリム自身は参加せず、メルヴに留まって任地のホラーサーンの経営に努めた。アブー・ムスリムはアッバース家のカリフの承認を受けず、イラン各地の総督を独断で任命した。また、メルヴ、サマルカンドにモスクなどの施設を建設した。 ホラーサーンに留まったアブー・ムスリムはバルフに残存するウマイヤ朝の駐屯軍を破り、キシュ、ブハラを占領した。750年に石国(タシュケント)が唐の将軍・高仙芝の攻撃を受けて財宝が略奪され、国王が長安に送られる事件が起きる。石国の人間は唐への臣従を破棄してアブー・ムスリムに唐軍の行為を訴え、アブー・ムスリムは部下のジヤード・イブン・サーリフを東方のフェルガナに派遣した。751年にジヤード・イブン・サーリフの軍と高仙芝の軍はタラス近郊で衝突し、アッバース軍が勝利を収めた(タラス河畔の戦い)。 アブー・ムスリムはホラーサーン、中央アジアの土着の領主に対して懐柔策をとり、彼らに対して自治を認め、征服時に取り決めた税額を徴収するだけに留めた。従属する土豪の中にはすすんでアッバース革命に参加し、イラクに定住した者もいた。しかし、その多くは領地に留まってアブー・ムスリムに従属し、ホラーサーンはアブー・ムスリムと領主たちの連合政権としての性質を帯びるようになる。アブー・ムスリムと中央集権化を進めるサッファーフの関係は悪化し、アブー・ムスリムはジヤード・イブン・サーリフらサッファーフを支持する一派を処刑した。サッファーフの兄アブー・ジャアファル(後のカリフ・マンスール)は弟にアブー・ムスリムの排除を進言したが、サッファーフは功績の大きいアブー・ムスリムの処刑をためらった。
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