アッバース革命での活躍
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「アブドゥッラー・イブン・アリー」の記事における「アッバース革命での活躍」の解説
749年初頭、ホラーサーン地方のアブー・ムスリムが指導する反ウマイヤ朝の蜂起が東方で成功を収め、アブー・ムスリムが率いるホラーサーン軍はペルシアからイラクの国境地帯に向かって西進した。749年10月、イラクのクーファにおいてアブー・ムスリムらホラーサーン軍の支持を受けたアッバース家のサッファーフがアリー家の人間を抑えてカリフに推戴される。アッバース朝の支配をより強固にするため、サッファーフは一族の人間を軍隊の指揮官に任命した。サッファーフの兄アブー・ジャアファル(後のカリフ・マンスール)はワーシト包囲の援軍の指揮官を務め、アブドゥッラーはウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世の勢力下にあるジャズィーラ地方に派遣される。 750年1月、チグリス川の支流である大ザーブ川でアブドゥッラーはマルワーン2世と対陣するが、アブドゥッラーの軍はマルワーン2世の軍よりもはるかに兵数が少なかった。当初マルワーン2世から講和の使者が送られるが、アブドゥッラーは和平の意思を疑い、マルワーン2世の縁者の一人がアッバース側に攻撃を仕掛けたために戦闘が開始される。士気の低いウマイヤ軍に対して、アブドゥッラーの軍は奮戦し、勝利を収める(ザーブ川の戦い)。750年4月にアブドゥッラーは包囲の末にウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領し、マルワーン2世はエジプトに逃走する。ダマスカス、キンナスリーンにあるウマイヤ朝のカリフの墓は信仰心の篤いウマル2世のものを除いて掘り返され、遺体には冒涜が加えられた。アブドゥッラーの兄弟サーリフはエジプトに逃げ込んだマルワーン2世を追跡し、マルワーン2世を捕殺する。
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