アッバース朝初期の宗教政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 04:50 UTC 版)
「ザンダカ主義」の記事における「アッバース朝初期の宗教政策」の解説
アッバース朝初期のウラマーは「ザンダカ主義者」という用語を反体制派に対して用いた。彼らによれば、ザンダカ主義者は、自身をイスラーム教徒であると公言しながらイスラームの中心教義に相反する教えを信じ、あるいは信仰を実践する。このため、ザンダカ主義者は、背教者あるいは不信仰者とみなされる。ザンダカ主義者であるか否かの基準は、事実上、公然と反体制運動をしたか否かであった。 「ザンダカ主義」の罪は重く、処刑もあり得た。「流血者(サッファーフ)」カリフ、アブル・アッバースは「寛容は結構なことだ。ただし、イスラーム教と君主の尊厳を毀損しかねない物事に関しては例外だ。」と述べたと、この時代の年代記は伝えている。カリフ・マフディーは自由思想や「異端」に反駁する護教論の執筆をウラマーに命じ、さらに「ザンダカ主義者」であるという疑いがあるだけで処刑ができるようにした。こうして何年もかけて自由な思想や異端教説を説く者を根絶やしにしようとした。 マフディーの後継者であるカリフ・ハーディーとラシードもマフディーの対ザンダカ主義政策を続けた。 ただし、カリフ・ラシードはその治世も後半になると弾圧の強度をゆるめ、最終的には政策を放棄した。ミフナ説(クルアーン=被造物説)を奉じるカリフ・マアムーンの代になると、今度は、マフディー~ラシード時代に「体制側」だった教義を奉じるウラマーや官僚が弾圧される側に回ったが、カリフはザンダカ主義者弾圧政策のやり方をまねて、ミフナ説を受け入れない者たちを弾圧した。
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