アッバース朝の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:53 UTC 版)
詳細は「バグダードの戦い」を参照 ニザール派の教団をほぼ制圧したモンゴル軍は素早く旋回し、タマ軍と連動して動き現在のイラク方面に軍を進めバグダードを包囲した。フレグは当時のカリフ、ムスタアスィムに降伏を勧告したもののムスタアスィムはこれを拒否し、1258年2月5日、諸軍による包囲が完了し、フレグがバグダード市街の東面に陣を敷き終えると、モンゴル軍によるバグダードの攻撃が始まった。 アルメニア人、グルジア人、ペルシア人、トルコ人といった現地の諸勢力を吸収したモンゴル軍は圧倒的な戦力で二十日間に渡ってバグダードを攻めたが、その攻撃には当時でも最新の攻城兵器が使われた。 ヒジュラ暦656年サファル月4日(1258年2月17日)ムスタアスィムは降伏しバグダードから出城した。その後、モンゴル軍やフレグの遠征に従軍したアルメニア王国やグルジア王国の軍などによって、一週間に渡りバグダード市街の内外で掠奪や殺戮が行われた。カリフが出城して三日後の同年サファル月7日(1258年2月20日)に掠奪が始まり、サファル月13日(1258年2月26日)にモンゴル軍に投降して市街地より外に出ていたバグダードの名士たちの懇願を受ける形で、フレグが戦闘停止命令を生存者の生命・財産の安堵を布告して、バグダードの戦闘は終了した。翌日フレグは事後処理を幕下の将軍たちなどに命じ、自身は死臭を避けてバグダード郊外南西のワクフ村というところに陣を張った。そこでフレグは拘留していたカリフに処刑を通知し、サファル月15日(1258年2月28日)にカリフ・ムスタアスィムは自らの子息二人と側近たちとともにその地で処刑された。カリフはモンゴルが貴人の命を奪う際の方法として敷物でまかれ軍馬に踏まれ殺されたとも伝えられる。バグダード市内は略奪され、「知恵の館」なども失われて[要出典]この後バグダードがかつての栄光を取り戻すことはなかった。以後、バグダードはイラーク・アラビー州の州都としてイルハン朝の財政を支える重要な拠点となり、さらにはイルハン朝君主の冬営地としてたびたび君主のオルドがバグダード郊外に営まれた。陥落当初アッバース朝から寝返ったカリフの宰相イブン・アル=アルカミーがバグダードの行政を担当したが、程なく暗殺され、1260年代以降は『世界征服者史』の著者でもあるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーがバグダードの知事として、亡くなるまで20年近く同地の行政を担いバグダードの復興に尽力する。
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