生涯、著作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 23:00 UTC 版)
「マフムード・カーシュガリー」の記事における「生涯、著作」の解説
マフムード・カーシュガリーは11世紀のカシュガルで誕生したが、彼の生涯に関する詳しい記録は残されていない。東カラハン朝の君主ムハンマドがマフムードの祖父だと考えられており、父のフサインはバルスハン地方の貴族であり、後にバルスハンからカシュガルに移住した。 マフムードはカラハン朝の王位継承権を巡る争いの中で父と近親者を毒殺され、近隣のテュルク系民族の下を転々とした。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の国境地帯から中国の辺境部に至る地域を遍歴した後、アッバース朝の首都バグダードを訪れた。5年の月日をかけて辞典を編纂し、1077年(もしくは1083年)に『テュルク語集成』をカリフ・ムクタディーに献呈した。『テュルク語集成』のほかに文法書『チュルク語文法宝典』も著したが、この書は散失した バグダードで作成された『テュルク語集成』の原本の写本はアッバース朝の滅亡後にエジプト・シリアのマムルーク朝の支配領域に移され、早くとも1266年に写本のコピーが作成された。写本は何度か持ち主を変えた後、マムルーク朝の滅亡後にオスマン帝国の首都イスタンブールへとわたる。その後写本は古書店に並び、写本を買い取った蔵書家のアリー・エミリーによって1917年から1919年の間に3巻本として活字出版された。これまで『テュルク語集成』と著者であるカーシュガリーの存在は長らく忘れられていたが、写本の出版によって再び注目を集め、多くの学者の研究の対象となる。『テュルク語集成』の写本は写真版とカラーファクシミリ版が出版され、トルコ語、ウズベク語、現代ウイグル語、英語に訳された。
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