第17王朝との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 17:48 UTC 版)
「エジプト第15王朝」の記事における「第17王朝との戦い」の解説
やがてテーベの第17王朝が力をつけてくると、彼らは異民族支配の打破を大義名分として第15王朝を攻撃した。第15王朝と第17王朝の戦いは長期間に渡ったが、初期の戦いの様子は詳らかではない。と言うのも初期の戦いに関する記録が数世紀後に書かれた説話しかなく、しかもこの説話が断片的にしか今日に伝わらないためである。第19王朝時代に記録された説話の1つ『アポフィスとセケンエンラーの争い』によれば、第17王朝が戦いを開始したのはセケンエンラー(前1574頃)の時代であったという。第15王朝の王アペピ(アポフィス)が、テーベのアメン神殿の聖なる池で飼われていたカバの鳴き声がうるさく、安眠ができないので殺すように要求してきたことが戦いの発端であるとされる。このような理不尽な命令を受けてもセケンエンラーは当初アペピの使者を親しく迎え入れ、二心なきこと誓ったが、やがて第15王朝に対する朝貢を取りやめて戦争を開始するに到った。これはヒクソスの支配がいかに理不尽なものであったのかを強調した物語で史実とは見なし難いが、セケンエンラーが第15王朝に対する戦いを行っていたことは確かめられている。 第15王朝と第17王朝の戦いは長く激しいものであった。少なくとも当初第15王朝は第17王朝に対して勝利を収め、セケンエンラー2世を戦死させ、第17王朝の攻撃を一時頓挫させることに成功した。しかし第17王朝側ではセケンエンラー2世の子カーメス(前1573頃 - 前1570頃)が即位し、彼は再び戦端を開いた。第15王朝はクシュ(ヌビア北部)と同盟を結んで対抗しようとしたが失敗に終わり、カーメスによって大幅に領土を奪われたとされる。このカーメス王との戦いに関する流れは、カーメス王の戦勝記念碑の記録に基づいてなされるが、戦勝記念碑という文書の性質上、ある種の誇張を含む点には注意が必要である。カーメスが早世したため、第17王朝ではその弟イアフメス1世(前1570頃 - 前1546)が即位してなおも第15王朝に対する戦いを続けた。第15王朝の首都アヴァリスは断続的な包囲を受けて陥落し、第15王朝はエジプトの支配を失った。これによって第15王朝のエジプト支配は終焉を迎えたのである。第15王朝の残存勢力はパレスチナ側領土の拠点シャルヘンに引いたが、イアフメス1世は第15王朝の完全撃破を企図してパレスチナ遠征を敢行し、シャルヘンでの3年間にも渡る包囲戦の結果第15王朝は完全に滅亡し、ヒクソスの時代は終わりを告げた。その時期は紀元前16世紀半ば頃であった。
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