ネクタネボ2世 (英:Nectanebo II, 在位:紀元前360年 - 342年 )は、エジプト第30王朝 最後のファラオ 、かつ最後のエジプト 人のファラオである。
呼称
ネクタネボ2世という呼称は、古代ギリシア語 のネクタネボス (Νεκτανεβώς 、あるいは後代の史料ではΝεκτανεβός )に由来する。これは彼の誕生名「ナクトホルヘビト (Nḫt-Ḥr-Ḥbt , Nakht-hor-hebyt )」に由来しエジプト語 で「勝利はヘビトのホルスに」という意味である[ 2] 。
英語 では慣習的に、二代前の王である祖父ネクタネボ1世 と同じ名前とされるため「2世」と呼ばれるが、ネクタネボ1世のギリシア名は「ネクタネビス(Νεκτάνεβις)」、エジプト語の誕生名は「ナクトネブエフ(Nakht-neb-ef)」である。中世のアラブ世界 では、ネクタネボ2世はナカターニバス (Nāqāṭānībās、アラビア語:ناقاطانيباس)と呼ばれた[ 4] 。
ネクタネボ2世のもとエジプトは繁栄した。祖父であるネクタネボ1世と同様に、古代エジプトの宗教における多くの神々を崇拝し、100以上のエジプトの遺跡にその痕跡を残した。ネクタネボ2世の時代には、エジプトの芸術家たちが独自のスタイルを確立し、プトレマイオス朝 のレリーフに受け継がれている。さらに、ネクタネボ1世よりも多くの建設や修復を行い、特に巨大なエジプトのイシス 神殿(イセウム)の建設を行ったとされる。
ネクタネボ2世は数年間、エジプトをアケメネス朝 ペルシア から守り通していた。
しかし、かつての部下である傭兵のロドスのメントル に裏切られ、紀元前343年のペルシウム の戦いでペルシアとギリシア の連合軍に敗れた。ペルシア軍はメンフィス を占領した後エジプト全土を占領し、アルタクセルクセス3世 の下でアケメネス朝に組み込まれた。ネクタネボ2世は南(上エジプト )に逃れてしばらく勢力を保っていたようであるが、その後の消息は不明である。
イシス女神とネクタネボ2世
即位前
紀元前525年 、エジプトはアケメネス朝に征服されたが、ペルシアの継承争いによって紀元前404年 に独立を回復した。紀元前389年 にエジプト第29王朝 のハコル 王はアテネと条約を締結し、紀元前385年 から383年 までペルシアの侵略に耐え抜いた[ 5] 。しかし、紀元前387年 にアケメネス朝とギリシア諸都市のあいだにアンタルキダスの和約 が締結され、ペルシアの地中海 覇権の邪魔となるものはエジプトとキプロス のみとなってしまった。
紀元前360年 、ネクタネボ2世の叔父テオス 王(エジプト名ジェドホル)は、アケメネス朝の侵攻に対して沿岸をとおり遠征、ネクタネボ2世もマキモイ(英語版 ) (兵士)の指揮官として随行した[ 6] 。テオスは戦費を迅速に調達すべく、民に税を課したり神殿の財産を差し押さえた[ 7] ため、神官を始めとして国民は反発し、ネクタネボ2世を推戴した。テオスはスパルタ王 アゲシラオス2世 とアテナイ のカブリアス 将軍に助力を求めた[ 8] が、アゲシラオス2世は「自分が派遣されているのははエジプトを助けるためであって、エジプトと戦をするためではない」とこれを断り[ 8] 、カブリアスは兵とともに帰国してしまった[ 8] 。テオスはアケメネス朝へと逃れ、そこで死を迎えた。
しかしネクタネボ2世は次に、メンデス(英語版 ) (ジェデト)市でファラオを名乗る人物と争うこととなる[ 8] 。この人物は名が伝わっていないが、メンデスから出たネフェリテス1世(英語版 ) の子孫だと考えられている[ 9] 。彼はアゲシラオス2世に使者を送って自分の側につくよう説得した[ 8] が、アゲシラオス2世は変節漢となることを恐れてネクタネボ2世への忠誠を通した。ネクタネボ2世とアゲシラオス2世の軍はナイル川デルタ 地帯の町で、多くの賛同者を得ていたメンデス軍に包囲されたものの、数で勝る敵に勝利をおさめ、反乱は紀元前360年 の秋に鎮圧された。[ 10]
治世
ネクタネボ2世時代のスタテル 金貨。裏面の意匠は「良き金」を意味するヒエログリフで、胸飾り(「金(nebu )」をあらわす)が、気管と心臓(「良き(nefer )」を意味する)と直角に交差している[ 11] [ 12] 。
内政においては宗教がおおきな役割を果たした。メンフィスにてアピス 牛の供儀をつかさどったことがその治世のはじまりである。さらにアピス牛の東西の神殿に、浮彫りの装飾をつけ加えている。治世下で建立された有名な宗教施設には、アブ(Abu、エレファンティネ島 )のクヌム 神殿、セクトアム(Sekht-am、シワ・オアシス )のアメン 神殿がある。大気の神シュー と同一視された狩猟神オヌリス(英語版 ) にも閃緑岩 の神殿を建立し、この一部がチェブネチェル(Tjebnutjer、現在のサマンヌード(英語版 ) )から発見されている。モンチュ 神に捧げられる牡牛ブキス(英語版 ) を祀る教団を興隆させ、[ 10] アビドス の聖山から採石することを禁じる布告も出された[ 15] 。
外交では、エジプトを再征服しようとするアケメネス朝の外患に遭った。即位以前にも、ペルシアは紀元前385年 、紀元前383年 、紀元前373年 に再侵攻している。ネクタネボ2世は戦間期に軍を編成しなおし、当時の定石としてギリシア人傭兵を雇い入れた。紀元前351年 、アケメネス朝はエジプト再征服に乗りだしたが、アテナイ のディオファントゥス(カタルーニャ語版 ) (Diophantus)やスパルタ のラミウス(Lamius)といった将軍らにより一年をかけてこれを挫いた。この勝利によってネクタネボ2世は人民から「神の隼」と称えられ(隼 は太陽神ラー 、王権の神ホルス などの神々の象徴)、彼の名のもとに多くの祭儀がおこなわれた[ 16] 。
ネクタネボ2世のウシャブティ(英語版 ) 像 (エジプト・ファイアンス(英語版 ) 製)、エジプト博物館 (トリノ) 所蔵
紀元前345年 から344年 にかけて、シドン 王テネス(Tennes)に率いられてフェニキア 人がアケメネス朝に叛乱を起こすと、ネクタネボ2世はこれを支援し[ 17] 、ロドスのメントル 率いるギリシア人傭兵4千人を送る[ 18] 。だが、アルタクセルクセス3世の軍勢の接近を知ると、メントルはテネスと共謀してペルシアへの内通をはじめた[ 18] 。紀元前344年にはアルタクセルクセスはギリシアへ使節を送り、エジプト遠征に参戦するよう求めた[ 19] 。アテナイおよびスパルタは使者を丁重に遇したもののエジプトへの共同戦線を張ることは避けた[ 19] が、他の諸都市はペルシア側に付くことを決め、テーバイ は千人、アルゴス は3千人の重装歩兵を送った[ 19] 。
亡命
紀元前343年 冬、アルタクセルクセス3世はエジプトに向けて出発した。ネクタネボ2世率いるエジプト軍はエジプト兵6万人、リビア 兵2万人、ギリシア人傭兵2万人より成っていた[ 20] 。加えて、ナイル河口からの侵入を防ぐために多数の平底船が用意されており[ 21] 、地中海から東部にかけての国境は砦や塹壕によって隙を覆われていた[ 21] 。一方、ペルシア軍は、エジプト国境を熟知しているメントルとその部下、およびイオニア 兵6千人によって強化されていた[ 18] 。
紀元前342年 夏、ネクタネボ2世は敗退。アルタクセルクセスはメンフィスに入城し[ 22] 、ここにサトラップ を置く[ 23] 。ネクタネボは上エジプトに逃れ、その後ヌビア に亡命したが、しばらく一定の勢力を保っていた。アルセス 王の時代にエジプトで反乱を起こしたカバシュ(英語版 ) とともに復権を試みたがついに叶わなかった。
ネクタネボ2世のオベリスク 。泥岩 製。二重に偉大なるヘルモポリス の主トート の聖域の門に設置したと記されている。現在は大英博物館に安置。
考古学的遺産
エジプトの独立をうしなった不運な時代の王ではあったものの、ネクタネボ2世は幅広い建設を行っており、その規模はエジプト新王国 時代に栄えた王たちに匹敵したとみられる。
宗教建築
ネクタネボ2世および祖父ネクタネボ1世についての記述は主だった宗教施設のほぼ全てに見られ、エジプト全土にわたって膨大な建築物にその名が刻まれていることが、この二人の王の敬虔さが古の偉大な王たちに匹敵するものであることを示している。ネクタネボ2世は全土において神殿を建立・改築しており、それらの使節の神官らにも膨大な寄進をしている。その名はヘリオポリス 、アトリビス(英語版 ) 、ヘリオポリス など下エジプト 全土にわたって発見されているが、もっとも多く見られるのはベフベイト・エル・ハガル(英語版 ) をふくむチェブネチェルである。この地の神殿の浮彫は後代のプトレマイオス朝の美術に明瞭な影響をのこしている。とは言え、これらの宗教施設の建立は純粋な信仰心のみによるものではなく、反乱によって王位を得たネクタネボがその王権を宗教で正当化し、エジプト全土に広めようとしたとも考えられる。
像
ネクタネボ2世を守護するラー・ホルアクティ 神。硬砂岩製
注釈の付けられたネクタネボ2世の像は、メトロポリタン美術館 が所蔵する硬砂岩 でできた、隼の姿をしたホルス神に守られる小さな像を除いて知られていない[ 27] 。この像のネクタネボ2世はネメス冠 と蛇形記章 をかぶっている。剣を持った曲げた左腕はヒエログリフ の「ナクト(nakht、勝利)」を、右手に提げた椀は「ヘブ(heb、祭典)」を表している[ 28] 。
ネクタネボ2世のものとされる他の像には、ペンシルベニア大学考古学人類学博物館 所蔵の珪岩 製の頭部、アレクサンドリア の玄武岩 製の頭部、ボストン美術館 の収蔵する花崗岩 製の頭部、そして損傷した珪岩製の頭部があり、いずれも青冠 をかぶっている[ 27] 。
石棺
ネクタネボ2世の石棺。基部には排水口が見える。
1798年 、ナポレオン・ボナパルト はアレクサンドリア を占領した[ 29] が、1801年 のアレクサンドリア攻囲戦 でフランス 軍はイギリス 軍に降伏し、古代の都市から収集品を条件付きで引き渡した。これらの品のなかにロゼッタ・ストーン と、ヒエログリフで覆われた重さ7トンの石棺が含まれていた。石棺はアッタリーン・モスク(英語版 ) で発見され、アレクサンドリアがイスラム 支配下にあった時代に沐浴 用の浴槽として使われ、排水口が開けられていた[ 30] 。これが、イスラム世界において神聖視されてきた英雄アレクサンドロス3世 (アレクサンドロス大王)の墓から持ち出されたものだと信じた現地人から干渉を受けたため[ 31] 、石棺はロンドン へ輸送され、現在は大英博物館 に収蔵されている[ 30] 。
表面のヒエログリフが解読され、石棺はアレクサンドロスのものではないと判明した。墓に刻まれていたヒエログリフは「アムドゥアト の書」の一部で、ネクタネボ2世のカルトゥーシュ が刻まれていた。[ 31] ネクタネボ2世のために造られた墓が、彼がヌビアへ亡命したため使われないまま残っていたものだと考えられる[ 32] 。
一方で、この棺には実際にアレクサンドロス大王の遺体が収められていたとする説もある。紀元前323年 に彼が死去した際に、遺体は一時的にメンフィス近郊のサッカラ に葬られていた。サッカラにはネクタネボ2世も葬祭殿を建てており、そこに用意されていた石棺がアレクサンドロスのため用いられ、紀元前280年 にアレクサンドリアへと移送された可能性がある、とする説である[ 31] 。エジプト考古学雑誌『Kmt 』(2020年 秋号)に掲載された論文の中で、アンドリュー・チャッグ(Andrew Chugg) は、1960年 にヴェネツィア のサン・マルコ寺院 の土台に埋め込まれていた紀元前3世紀 のマケドニアの高位聖人の墓の断片(828年 に聖マルコの聖遺物と共にアレクサンドリアから運ばれたと考えられていた)が、石棺の墓蓋としてぴったり合うことを示しており、この石棺にかつてアレクサンドロス大王の遺体が安置されていたという新たな主張を引き起こしている[ 33] 。
伝説
土着の人物としては最後の古代エジプト王だったネクタネボ2世は、アケメネス朝の支配を終わらせたアレクサンドロス大王の伝説、いわゆる「アレクサンドロス・ロマンス 」において、正史と異なる物語が伝えられた。
アレクサンドロス伝説
偽カリステネス(英語版 ) (Pseudo-Callisthenes)による『アレクサンドロス大王物語(Alexander Romance)』によると、ネクタネボ2世はヌビアではなく、ペルシウムから海路マケドニア王国 へ亡命したとしている[ 34] 。
占い師として名声を得たネクタネボ2世は王妃オリュンピアス に近づき、国王ピリッポス2世 と不仲になりつつあったオリュンピアスに、リビュア のアメン神が彼女のもとを訪れて息子を授けることを説いたり、魔術を用いて夢に見させた。そうして、黄金の羊角をはやしたアメン神に変装したネクタネボ2世とオリュンピアスのあいだにアレクサンドロス3世が誕生したとする[ 35] [ 36] 。しかしアレクサンドロスが12歳になると、ネクタネボが占星術にかまけるのを不遜として深い穴に叩き落した。ネクタネボはすべての真相をアレクサンドロスに告げて息絶え、息子アレクサンドロスがエジプト式に弔われるのとは対照的に、ギリシアの様式で葬られたという[ 37] 。
この伝説はエジプト人にとって、外国人による支配ではなく、受け継がれた王朝によって統治されているという魅力をもつものだった。
また、サッカラのセラペウム(セラピス の神殿)から発見されたギリシア語の断章にも、プトレマイオス朝初期の物語が残されている[ 38] 。ネクタネボ2世は女神イシスより、前述のチェブネチェル(ギリシア名:セベニトス(Sebennytos))の神殿が完成していないことにオヌリス神が怒っているとの夢告を授かる。エジプト最高の彫刻家ペテシス(Petesis)を招聘して神殿を完成させるも、酒に酔って美少女を追い回し、務めを台無しにしてしまう。物語はここで途切れているが、エジプトの滅亡へつづく序章であると思われる[ 39] 。10世紀 ホラズム の学者ビールーニー の『インド誌(英語版 ) 』にもこの伝説が引用されている[ 40] 。
魔術師ネクタネボ2世
ネクタネボの夢のパピルス 、紀元前160年~150年 頃
上記のアレクサンドロス大王物語のなかでは、ネクタネボ2世は魔術と占術の達人として描かれている。
戦争となれば、彼は通常の戦争準備ではなく水盤をもちいた呪術で敵を敗北させた。水盤に蝋でつくった敵の軍船や兵を浮かべ、黒檀の杖を手にして諸霊に祈りをささげて蝋細工に生命を宿らせた。蝋の軍船を沈めれば本物の敵軍も壊滅し、エジプトは安泰を保っていた。ところがペルシア軍の侵攻に際してこの呪術を行ったところ、エジプトの神々が敵軍を率いて攻めてくる様が見て取れた。これによってネクタネボ2世はエジプトの命運を悟ると、変装して黄金をたずさえ王宮から逃れたとしている[ 41] [ 42] 。
また、彼は占星術 を用いるにあたって、星々を宝石であらわした、黄金と象牙でできた小さな書板を用いていたという[ 43] 。さらにオリュンピアスの出産時には、生まれる子が大王となる運命の刻限を見計らって出産をさせた[ 44] 。
ラ・ブスカのタロットにおけるナタナボ (北イタリア 、1491年 頃、ミラノ のブレラ美術館 所蔵)
アレクサンドロス3世を産ませるにあたって、蝋人形と植物の汁をもちいた儀式や、使い魔の海鷹をもちいて望み通りの夢を吹き込むこともできた[ 45] [ 46] 。
さらに、オリュンピアスのもとへ忍び入るにあたっては、蛇(アポローン とアスクレーピオス の象徴)や鷲(アメンと同一視されたゼウス の眷属)に姿を変えている[ 47] 。こうした伝説によるものか、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(英語版 ) の『歴史の鑑(英語版 ) 』などでは、ネクタネボ2世は竜の姿として描かれることがある[ 48] 。
ネクタネボ2世は、ルネサンス以降に至るまでヨーロッパ文化に影響を与えた。15世紀 後半のタロット カードである『ソラ・ブスカのタロット(英語版 ) 』にはナタナボ (Natanabo)の名で、アレクサンドロス大王、ピリッポス2世、オリュンピアス、アメンとともにカードとなっている[ 49] 。イタリア の学者ソフィア・ディ・ヴィンチェンツォ(Sofia Di Vincenzo)はこのナタナボについて、錬金術における意味として、無敵性および精神と物質の力を象徴する兜をもって天界から地上へと遣わされた使者であると説いている[ 50] 。
脚注
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