ブバスティスは、下エジプト第18ノモスブバスティス・ノモス 、すなわちアム=ケント(Am-Khent [6] )・ノモスの首都として機能した。タニス の南西、ナイルのペルシオン支流 (Pelusiac branch )の東岸に立地していた。このノモスと都市ブバスティスはエジプトの軍人カースト のうちカラシリエスの地区に割り当てられていた[7] 。
第22王朝 最初の支配者で創設者であり、紀元前943年にファラオ となったシェションク1世 以後、王室在所となった。ブバスティスはこの王朝と第23王朝 の間、最盛期であった。それはカンビュセス2世 による紀元前525年のペルシア の征服以後、下り坂となり、サイス の第26王朝 の終わりとアケメネス朝 の始まりの先触れをなした。
エジプト第22王朝の君主は9人、または、エウセビオス によれば[8] 、3人のブバスティスの王で構成されており、彼らの治世中には、この都市はデルタで最も顕著な場所だった。ブバスティスの南にはすぐに、プサメティコス がイオニア とカリア の傭兵の奉仕に褒賞とした土地が割り当てられており、都市の北側にはファラオネコ2世 が始めた(が、決して成し遂げなかった)ナイルと紅海 の間を通す運河が始まっている[9] 。ブバスティスがペルシアによって奪われた後、その市壁は取り壊された。この時代より、第2アウグスタムニカ(英語版 ) 属州 の主教座(英語版 ) 毎の教会編年誌 [10] に現われるものの、次第に下り坂となった。ハドリアヌス 時代のブバスティス製の硬貨が存在している。
以下はヘロドトス がブバスティスに割いた記述で、紀元前525年のペルシアの侵入後間もなくのことのようで、ハミルトンは、廃墟の見取り図がこの歴史家の目の当たりに目撃した正確さを顕著に保証している、と述べている[11] 。
ブバスティスのものよりも宏壮で贅を尽くした神殿はあるが、これほど見る目に快いものは一つとしてない。その様式は以下の通りである。その入り口を除いては、水に囲まれており、2本の運河が川から枝分かれしてきて、神殿への入り口まで走っており、どちらの運河も互いに入り交じることはないのだが、一方はその片側を走り、もう一方もそのようになっている。それぞれの運河は100
フィート の幅があり、その土手は樹々に覆われて走っている。
プロピュライア は高さが60フィートあり、素晴らしく見事な出来映えの彫刻で(おそらく陰刻の浮彫)9フィートの高さにわたって飾り立てられている。この神殿は市の中央にあるので、周囲を巡りながら、どの側からでも眺められる。このことは、神殿自体は動かされたことがないが、その元の場所にそのままである一方で、市がかさ上げされてきたことによる。神殿のすぐ周囲には、彫刻で飾り立てられた壁が巡らされている。その囲いの内側には、(バストの)彫像のある壮大な建物の回りに植えられた相当背の高い樹々の木立がある。その神殿の形は、一辺がそれぞれ長さ1
スタディオン の方形である。入り口に接して、3スタディオンの長さにわたって公衆市場
[12] を貫いて東方へと導く石で築かれた道がある。この道はおよそ400フィートの広さがあり、並外れて背の高い樹々が配されている。それは
ヘルメス の神殿へと導いている。
宗教
ブバスティスはネコ科の女神バスト [14] 崇拝の拠点であり、古代ギリシア人 はそれをアルテミス に比定した。ネコ は神聖(英語版 ) にしてバステト特有の動物で、ネコまたは雌ライオン の頭部で表現され、記念碑の碑銘において、しばしば神柱プタハ に付き従っている。従って、ブバスティスにおける墳墓は、ネコのミイラ(英語版 ) のエジプトにおける主要な保管所であった。[15] [16]
ブバスティスの町とノモスのその最も顕著な特徴は、バストの神託 とその女神の壮麗な神殿、彼女に敬意を表する例年の行進であった。神託は、ギリシア人定住者のデルタへの流入の後、バストのアルテミスとの比定 が、現地のエジプト人も外国人もその殿堂に引き付けたため、人気を増し重きを加えた。
ブバスティスの祭は、ヘロドトス によって描写されている通り、全てのエジプトの歳時記 の中で最も楽しげで豪華なものだった。
男女でいっぱいになり、ナイルに浮かべられてのんびりと下る全ての種類の艀や川舟。男たちはロートスの笛を吹き続けた。女たちはシンバルやタンバリン。そしてこのように、音楽に合わせて手拍子や踊り、その他の楽しげな身振りや、楽器を持たなかったりしたものはいなかった。彼らは河の上にいる間そのようにしたが、その土手にある町に差し掛かると艀は早められ、巡礼者たちは下船し、女たちは歌い、はしゃぎながらその町の女たちを冷やかし、服を頭の上にまでまくり上げる。彼らはブバスティスに着くと、驚くべきほど物々しい祝宴を開く。その年の残りの全ての期間におけるよりも多くの葡萄酒がこの日々に飲まれるのである。この祭の流儀はこのようなものなのである。そして、バストの饗宴を同時に祝するための巡礼者たちは、知られているだけでも70万の多数に上るのだと言われている。
[17]
キリスト教区 現存の文献が、4世紀と5世紀のブバスティスの3人のキリスト教司教 の名を述べている。[18] [19] [20]
発掘物 後期新王国 の宰相 イウティ(英語版 ) の墳墓が、エジプト考古学者シャフィク・ファリドによってブバスティスの「貴人の墓地」で1964年12月に発見された。
2008年以降、ドイツ=エジプトの「テル=バスタ・プロジェクト」が、ブバスティスでの発掘を指揮している。以前には、2004年3月に、よく保存されたカノプス勅令 の写しがこの都市で発見された。[21]
関連項目
ザガジグ - このブバスティス遺跡の北西に隣接して立地する都市で、シャルキーヤ県の県都 。
ザガジグ大学 - 上記ザガジグにあるエジプト最大規模の大学。
タニス - 同じシャルキーヤ県にあるエジプトの古都 の一つ。
サイス - 同じくナイル川デルタ にあるエジプトの古都の一つ。
注釈
^ ヘロドトス 『歴史 』第2巻59節・137節。
^ ストラボン 『地理誌 』第17巻1章、ディオドロス 『歴史叢書(英語版 ) 』第16巻51節、プリニウス 『博物誌 』第5巻9章、プトレマイオス 『地理学 』第4巻5章52節。
^ 『エゼキエル書 』30章17節:“.בחורי און ופי־בסת, בחרב יפלו; והןה, בשבי תלכןה ” 「オンとピ・ベセトの若者たちは剣に倒れ、彼女らは囚われの身へと赴くであろう」。“הןה ”「彼女ら」が若者たちを指すことはあり得ないので、これらの都市を指すはずである。ヘブライ語で「都市」を意味する語は、一般に女性名詞(עיר, קריה )である。〔補足:新共同訳聖書 では「オンとピ・ベセトの若者たちは剣(つるぎ)に倒れ、他の人々 は捕囚として連れ去られる。」(※斜体と下線による強調は引用者によるもの)となっており、このヘブライ語の三人称 複数 女性形 代名詞 “הןה ”をそれらの都市の住民たちを指すものと解釈している。これに対して岩波書店 旧約聖書翻訳委員会訳 では「オンとピ・ベセトの若者たちは剣に斃(たお)れ、女たち は連行されて行くであろう。」(※斜体と下線による強調は引用者によるもの)としており、都市住民のうち、男子が殺されて女子が捕囚となる、と解釈している(脚注には「原文『彼女たち』」とある)〕
^ Bakr, Mohamed I.; Brandl, Helmut (2010). “Bubastis and the Temple of Bastet”. In Bakr, M.I.; Brandl, H.; Kalloniatis, F. (英語). Egyptian Antiquities from Kufur Nigm and Bubastis . Vol. 1 . カイロ /ベルリン : “M.i.N. Museums in the Nile Delta ” [M.i.N. ナイル・デルタにおける博物館] (英語). project-min.de . フンボルト大学ベルリン 考古学研究所エジプト学および北東アフリカ考古学. 2015年1月8日時点のオリジナル よりアーカイブ。2015年1月8日 閲覧。 . pp. 27-36. ISBN 978-3-00-033509-9
^ 「○○の家」とは古代オリエント で幅広く用いられていた慣用表現で、○○が人名であれば国家や王朝(通常は開祖の王の名前が○○となる)を意味し、神名であれば神殿を意味する。
^ イメティ=ケンティ(Imety-Khenty )とも転写される。ノモス (エジプト)#ノモスの一覧 参照。
^ ヘロドトスは『歴史』において、エジプトには“カラシリエス”(Καλασίριες Calasiries )と“ヘルモテュビエス”(Ἑρμοτύβιες Hermotybies )という軍人カーストが存在し、それぞれ決められた州(ノモス)の出身者から成っていたと記している。ブバスティスはテーベ やタニス等と共に、カラシリエスの出身州であると記されている。カラシリエスおよびヘルモテュビエスの語義については明らかでない。(ヘロドトス『歴史』第2巻164 - 166節)。
^ 『年代記(英語版 ) 』
^ ヘロドトス『歴史』第2巻158節 。
^ 〔補足:「教会編年誌」の原文は ecclesiastical annals 〕
^
Smith, William , ed. (1854–1857). "Bubastis" . Dictionary of Greek and Roman Geography . London: John Murray. 2012年1月28日閲覧 。 (ヘロドトス『歴史』第2巻137-138節)。
^ 〔補足:「公衆市場」の原文は public market だが、松平千秋 訳『ヘロドトス 歴史』〈岩波文庫 〉によればアゴラ のこと〕
^ 大英博物館収集品
^ 女神バストは、バステト (Bastet )とも呼ばれ〔エジプト語表記“Bȝśt.t ”の“-t.t ”の表記は、本来、女性形 語尾 “-t ”を強調したもので、末尾の“.t ”は実際には発音されていなかった可能性がある〕、もしくは(都市にちなんで)ギリシア語でブバスティス とも呼ばれる。
^ Evans, Elaine A.. “Cat Mummies ” [猫のミイラたち] (英語). マクラング自然史文化博物館 . マクラング自然史文化博物館(英語版 ) . 2018年4月8日 閲覧。
^ Scott, Nora E. (1958). “The Cat of Bastet” (英語) (PDF). メトロポリタン美術館 紀要 (ニューヨーク : メトロポリタン美術館) (SUMMER): 1-8. https://www.metmuseum.org/pubs/bulletins/1/pdf/3258805.pdf.bannered.pdf 2018年4月8日 閲覧。 .
^
Smith, William , ed. (1854–1857). "Bubastis" . Dictionary of Greek and Roman Geography . London: John Murray. 2012年1月28日閲覧 。 (ヘロドトス『歴史』第2巻60節)。
^ Gams, Pius Bonifacius (1931) (ラテン語 ). Series episcoporum Ecclesiae Catholicae . ライプツィヒ : Hiersemann K. W.. p. 461. http://www.wbc.poznan.pl/dlibra/doccontent?id=65154&dirids=1 2014年8月20日 閲覧。
^ Le Quien, Michel (1740). “IV. ECCLESIA BUBASTI (coll. 559-562)” (ラテン語). Oriens christianus in quatuor Patriarchatus digestus . Tomus Secundus (II) . パリ : Typographia Regia. pp. 80-81. https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=mwJhAAAAcAAJ&q=BUBASTI#v=snippet&q=BUBASTI&f=false 2014年8月20日 閲覧。
^ Worp, Klaas A. (1994). “A Checklist of Bishops in Byzantine Egypt (A.D. 325 - c. 750)” (英語) (PDF). Zeitschrift für Papyrologie und Epigraphik (ライデン /ボン : ライデン大学 /Dr. Rudolf Habelt有限会社 ) (100): 283-318. https://openaccess.leidenuniv.nl/bitstream/handle/1887/8214/5_039_223.pdf?sequence=1 2014年8月20日 閲覧。 .
^ テル=バスタ・プロジェクト (エジプト調査学会(EES)/ゲッティンゲン大学 /考古最高評議会 ) - エジプト調査学会(EES)
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
ブバスティス に関連するカテゴリがあります。