第25王朝
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「第25王朝」の解説
タハルカ(英語版)(紀元前690-664年)は唯一、複合体に付け加えた王であり、第1塔門と第2塔門の間の前庭にタハルカの殿堂を追加したとみられる。これにより、スフィンクス参道が今も配置されているように中庭の両側に移されたことが分かる。タハルカはまたモンチュの神域に列柱を追加した。
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第25王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)
この状況を打開するのは、ヌビア人クシュ王国の王、ピアンキであった。このころのヌビア人はアメン=ラー神を崇拝しており、外国人でありながらエジプトの文化・宗教を否定しなかったためごく短期間でテーベの政治・軍事・宗教の実権を握ることに成功した。第25王朝時代より、末期王朝時代に分類される。加えて、ピアンキは妹のアメンイルディスウ1世を在任中のアメンの聖妻の養女にし、大司祭オソルコン3世に代わりアメン神殿の最高権力を手中に収めた。この後はシャバカア・シャバタアカア・タハルカ王の治世を通して安定していた。シャバタカ王は前述のアメンイルディスウ1世と婚姻し、シャプエンウェペト2世を儲け、次のアメンの聖妻に就けた。シャバタカの弟タハルカ王も、自身の娘アメンイルディスウ2世をアメンの聖妻に就けることでテーベの支配権を得たのである。 第25王朝は、タハルカの甥、タネトアメンの治世に崩壊を迎える。タハルカの治世20年、すでに数回エジプトに侵攻を繰り返していたアッシリアがとうとう主要都市メンフィスをも奪い、タハルカは南に退かざるを得なかった。アッシリアは第24王朝の末裔ネコ1世(エジプト語:ニィカアウ1世)を擁立し、デルタ地帯を治めさせたのである。タハルカの後を継ぎ即位したタネトアメンはすぐさまデルタ地帯に侵攻、ネコ1世を討ってメンフィスまで奪回する。しかしながら、前664年にはアッシュルバニパルの攻撃でテーベまで墜ち、タネトアメンは出身国であるクシュに引き下がるのであった。
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