末期ローマ建築と初期キリスト教建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
「ローマ建築」の記事における「末期ローマ建築と初期キリスト教建築」の解説
四分治制はローマ建築に新たな息吹を与えたが、このような体制はディオクレティアヌスの強力な手腕によって維持されたものであり、彼の死後、ローマ帝国は急速に安定を失った。混乱の中で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝に打ち勝ってローマ唯一人の皇帝の座に着いたとき、ローマの政治体制は分権行政でなければ成り立たないほどに肥大化・分散化していた。現実的選択として帝国は二つに分けられ、テオドシウス1世の死後、東はコンスタンティノポリスを、西はミラノ、後にラヴェンナを首都とする統治体制は統合されることはなかった。その結果、経済的に恵まれた東方では、ローマ建築は新たな建築の道を開き、西方世界は歴史の荒波のまっただ中に放り出され、衰退することになる。 ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。3世紀の危機の時代以降、すでにローマ帝国領では至る所でミトラ教、マニ教などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのが、コンスタンティヌスに協力したクリストス教(キリスト教)であった。コンスタンティヌスがニコメディアで発した勅令(いわゆるミラノ勅令)によってキリスト教が容認されると、ローマ帝国の領内ではいくつもの大教会が建設された。当時のキリスト教徒は、ローマ建築が培ってきた様々なプラン、施工方法、技術から、あらゆる要素を任意に選択することができたが、彼らは教会建築として、ローマの世俗建築であったバシリカを多く採用した。ただし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるモザイクによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。初期キリスト教建築は、東ローマ帝国の潤沢な資金と継承された高度な技術の中で成熟していき、6世紀にハギア・ソフィア大聖堂として、その最も完成された姿を現すことになる。 東ローマの建築に対し、395年の分裂から西ローマ帝国の滅亡までの間、西方のローマ建築は、いわば喪失の時代であった。西方属州に侵入したゲルマン民族を、弱体化したローマ軍は掃討することができず、西ローマ帝国の国家基盤は早々に瓦解する。408年の将軍スティリコの死によって、西ローマ帝国は蛮族に対抗する力を失い、410年には西ゴート族のアラリック1世によってローマ市が陥落した。その後、将軍アエティウスの活躍によって、アッティラ率いるフン族の占領をなんとか阻止するものの、455年にガイセリック率いるヴァンダル族の侵略に抗いきれず、ローマ市は壊滅した。ローマ建築の活動中心地は、すでに新たな首都ラヴェンナに移っており、その建築は現在でもラヴェンナにおいて見ることができる。同時代の東ローマ帝国の建築活動に比べると、比較にならないほど小規模なものだが、その活動はガッラ・プラキディアの寄進によって、そして西ローマ帝国が滅びた後も、6世紀にランゴバルト人が侵入するまで、東ゴート王国、そして東ローマ帝国により継続された。
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