イギリスとエジプト
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「イギリスとエジプト」の解説
イギリスにとってエジプトの占領は、少なくとも当初は(イギリスの視点においては)オラービー革命に始まるエジプトの混乱という目の前の状況に対応するための暫定的な処置であった。1885年のマフディーの死後、エジプト自体がマフディー軍に占領される不安が解消された際、イギリスはオスマン帝国軍にエジプトの防衛を肩代わりさせ、現地から撤退しようとした。1887年5月にイギリス・トルコ協定によって、イギリス軍が3年以内にエジプトから撤退すること、エジプトの有事の際にイギリスとオスマン帝国が共同軍事行動を取ることなどが合意された。しかしイギリスのエジプトに対する優先権を明示した協定に対してロシアとフランスが難色を示し、この圧力のためにオスマン帝国はこの協定を批准しなかった。その結果としてイギリス軍はエジプトから撤退するタイミングを失い、長期化と共にイギリス軍のエジプト駐留が既成事実化することになった。 イギリス軍の駐留開始後、クローマー卿が就任する以前に「閣僚評議会」「地方評議会」「立法評議会」「国会」などの設置を定め、エジプトの行政機構の一新を図った。実質的な支配権は「アドバイザー」として各省庁や組織に配置されたイギリス人顧問が担い、閣僚評議会に参加する権利を持っていたイギリス人財政顧問には決定事項に対する拒否権が与えられた。イギリス当局の決定事項に逆らうことはエジプトのヘティーヴ(副王)であっても不可能であった。 イギリスにとってエジプトはインドと本国を結ぶ戦略上の要衝であり、それだけに現地の情勢を安定させる必要があった。イギリスの統治は明白に植民地支配の一形態であったが、イギリス領インド帝国に行政官として長く勤め、実務家として定評があったクローマー卿は、少なくとも財政・経済においてエジプトに目覚ましい復興をもたらすことになる。税制の整備と共に、灌漑設備の整備による経済の再建が試みられた。イギリス人が統治しているという事実によって、各債券国との積極的な交渉が可能となり、新規灌漑事業のための新たな融資の取り付けに成功した。そしてイギリスにはクローマー卿以外にも、ウィリアム・ウィルコックス(William Willcox)やウィリアム・エドムンド・ガースティン(英語版)のような、この融資を活かして効果的な灌漑プロジェクトを実行することが可能な経験豊富なテクノクラートがいた。彼らはインドでの経験を活かして各種の開発に携わり、ナイルデルタや上エジプトの灌漑網を整備する一方、貯水量10億トンの規模を持つアスワン・ダムの建設を行った(1902年完成)。これらによって農地面積と農業生産は急増し、また農産物の輸送のための鉄道網や農道の整備も行われた。 一連の開発と改革の結果、1896年までにエジプト政府の財政再建は完了し、歳入に余裕が出たことから大規模な減税が可能となった。この減税ではタバコ税を除いて、直接税・間接税のほとんどが対象となった。またクローマー卿の個性を反映して汚職・強制労働や鞭打ちの禁止など行政官の綱紀粛正も進み、農業用水の配分の平等化や高利貸しからの借金返済不能によって農民が農地を失うことを防止するための農業銀行の設立など、民生の改善も進んだ。こうしたイギリス人テクノクラートによる事業は、エジプト人の間でも極めて評判が良く、反英的な新聞ですらその功績を称えた。 ただし、それでもなおイギリスのエジプト統治はあくまで本国の利益に資することを前提とするものであった。クローマー卿の綿花産業重視はエジプトをイギリス本国への原料供給基地として確立するものであった。エジプトが「ランカシャーの綿花農場」として綿花生産を拡大する一方、本国と競合する可能性のある工業化に対しては厳しい圧迫が加えられ、現地在住のヨーロッパ人による紡績会社の設立さえ、極めて不利な税制によってその存立が認められなかった。この結果としてエジプト経済のモノカルチャー化が進展し、20世紀初頭にはエジプトの輸出における綿花の割合は80パーセントを超えるに至った。これはエジプト経済の構造的問題としてその後に残されることになる。
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