マフディーの反乱とイギリスとは? わかりやすく解説

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マフディーの反乱とイギリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「マフディーの反乱とイギリス」の解説

イギリスの支配後世エジプトの歴史学者からは現地利益無視しエジプト人を対等存在として扱わなかったとして厳し評価が行われている。しかし、オラービー革命による混乱で軍が解体態となり深刻な治安悪化進んでいたエジプトでは、少なくないエジプト人が唯一治安維持能力のあるイギリス軍駐留受け入れ土壌があったことも事実であった加えてエジプト支配化のスーダン発生していたムハンマド・アフマド・アル=マフディーによる反乱マフディーの反乱)の脅威がこの傾向助長した。彼は自らをマフディー救世主)と称して反乱起こした。これはエジプト・オスマン帝国イギリスという三重支配下置かれスーダンにおける抵抗運動というべき性質を持つものであった1882年から1883年にかけて、相次いでエジプト軍勝利していたマフディー軍勢は、エジプト本国すら窺うほどの勢い見せ有効な軍事力失っていたエジプト当局副王タウフィークイギリスの力をあてにするしかなかった。 しかし、イギリス本国スーダンへの関与消極であったこともあり、マフディー討伐成功しなかった。1883年イギリス人ウィリアム・ヒックス率いる軍がマフディー討伐向かったが、これは大敗終わりマフディー勢いはますます増した1885年スーダン首都ハルツーム陥落し助言担当という曖昧な立ち位置エジプト軍関与していたイギリスチャールズ・ゴードン将軍戦死した。これによってムハンマド・アリー朝によるスーダン支配一時崩壊し、エジプト・イギリスはスーダンからの全面撤退追い込まれた。しかし、マフディー同年に恐らく病気のために急死し後継者預言者ムハンマド後継者にちなんカリフ呼ばれた)たちは北方エジプト東方エチオピア南方ではドイツ人エドワード・シュニッツァーが支配していたエクアトリア赤道州)など、周辺各地手を広げ、そして敗退した1890年代に入るとイギリスではマフディー国家が奴隷貿易復活させたことなどから、その「野蛮」を糾弾する世論強くなり、また「イスラーム脅威」の文脈においてもスーダン派兵機運高まった1896年ホレイショ・ハーバート・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍スーダン向けて本格的なマフディー国家への攻撃作戦開始した。この部隊には後の駐エジプト高等弁務官レジノルド・ウィンゲート(英語版)やイギリス首相になるウィンストン・チャーチルなど新進気鋭人材多数参加していた。1898年4月アトバラ戦いでイギリス・エジプト軍はマフディー軍粉砕し9月にはオムドゥルマーンの戦いでマフディー軍全滅した。イギリス・エジプト連合軍ハルツーム占領し総督鑑定イギリスとエジプト国旗掲揚した。 ハルツーム占領の後、ジャン・バティスト・マルシャン(英語版率いフランス遠征隊がスーダン南部ファショダ(現:南スーダンコドク)に入ったという知らせ受けたキッチナー300人の将兵と共に現地向かいフランス軍撤退要求したが、マルシャンがこれを拒否し両国南スーダン領有権主張したために外交危機となったファショダ事件)。最終的にフランス引いたため武力衝突回避された。1899年イギリスとエジプト副王政府の間でスーダン・コンドミニウム協定締結されスーダンイギリスとエジプトのコンドミニウム(共同統治が行われることとなった。ただし既にエジプト自体イギリス強大な影響の下に置かれている状況であり、実質的にスーダンイギリスの支配下に入った

※この「マフディーの反乱とイギリス」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「マフディーの反乱とイギリス」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。

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