マフディーの反乱とイギリス
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「マフディーの反乱とイギリス」の解説
イギリスの支配は後世のエジプトの歴史学者からは現地の利益を無視しエジプト人を対等の存在として扱わなかったとして厳しい評価が行われている。しかし、オラービー革命による混乱で軍が解体状態となり深刻な治安悪化が進んでいたエジプトでは、少なくないエジプト人が唯一治安維持能力のあるイギリス軍の駐留を受け入れる土壌があったことも事実であった。加えてエジプト支配化のスーダンで発生していたムハンマド・アフマド・アル=マフディーによる反乱(マフディーの反乱)の脅威がこの傾向を助長した。彼は自らをマフディー(救世主)と称して反乱を起こした。これはエジプト・オスマン帝国・イギリスという三重の支配下に置かれたスーダンにおける抵抗運動というべき性質を持つものであった。1882年から1883年にかけて、相次いでエジプト軍に勝利していたマフディーの軍勢は、エジプト本国すら窺うほどの勢いを見せ、有効な軍事力を失っていたエジプト当局と副王タウフィークはイギリスの力をあてにするしかなかった。 しかし、イギリス本国がスーダンへの関与に消極的であったこともあり、マフディーの討伐は成功しなかった。1883年、イギリス人ウィリアム・ヒックスが率いる軍がマフディー討伐に向かったが、これは大敗に終わりマフディーの勢いはますます増した。1885年にスーダンの首都ハルツームが陥落し、助言担当という曖昧な立ち位置でエジプト軍に関与していたイギリスのチャールズ・ゴードン将軍も戦死した。これによってムハンマド・アリー朝によるスーダン支配は一時崩壊し、エジプト・イギリスはスーダンからの全面撤退に追い込まれた。しかし、マフディーは同年に恐らく病気のために急死し、後継者(預言者ムハンマドの後継者にちなんでカリフと呼ばれた)たちは北方でエジプト、東方でエチオピア、南方ではドイツ人エドワード・シュニッツァーが支配していたエクアトリア(赤道州)など、周辺各地に手を広げ、そして敗退した。1890年代に入るとイギリスではマフディー国家が奴隷貿易を復活させたことなどから、その「野蛮」を糾弾する世論が強くなり、また「イスラームの脅威」の文脈においてもスーダン派兵の機運が高まった。1896年、ホレイショ・ハーバート・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍がスーダンへ向けて本格的なマフディー国家への攻撃作戦を開始した。この部隊には後の駐エジプト高等弁務官レジノルド・ウィンゲート(英語版)やイギリス首相になるウィンストン・チャーチルなど新進気鋭の人材が多数参加していた。1898年4月、アトバラの戦いでイギリス・エジプト軍はマフディー軍を粉砕し、9月にはオムドゥルマーンの戦いでマフディー軍は全滅した。イギリス・エジプト連合軍はハルツームを占領し旧総督鑑定にイギリスとエジプトの国旗を掲揚した。 ハルツーム占領の後、ジャン・バティスト・マルシャン(英語版)率いるフランスの遠征隊がスーダン南部のファショダ(現:南スーダン領コドク)に入ったという知らせを受けたキッチナーは300人の将兵と共に現地に向かいフランス軍の撤退を要求したが、マルシャンがこれを拒否し両国が南スーダンの領有権を主張したために外交危機となった(ファショダ事件)。最終的にはフランスが引いたため武力衝突は回避された。1899年、イギリスとエジプト副王政府の間でスーダン・コンドミニウム協定が締結され、スーダンはイギリスとエジプトのコンドミニウム(共同統治)が行われることとなった。ただし既にエジプト自体がイギリスの強大な影響の下に置かれている状況であり、実質的にスーダンはイギリスの支配下に入った。
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