マフディー国家の樹立を宣す
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「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「マフディー国家の樹立を宣す」の解説
1881年6月29日(ヒジュラ暦1298年シャアバーン月朔日)、ムハンマド・アフマドは「自分が正導者(マフディー)であり、来るべき預言者イーサーの再来に備えて道を整えるべき」ことを公式に宣言した。それは、飛び抜けたスーフィーのシャイフとして、サンマーニーヤ教団とアーバー島の周辺地域の部族の中に多くの弟子たちを持ったムハンマド・アフマドの衆望がなければあり得ない宣言だった。もっとも、マフディー国家(ダウラッ・マフディーヤ)を樹立するというアイデア自体はムハンマド・アフマドの宣言よりも前に、サンマーニーヤ教団の思想の中心に既にあった。前指導者、クラシー・ワド・ザイン師は「待ち望まれているお方(ムンタザル)、救い主は、サンマーニーヤ教団の教えを受け継ぐ者たち(スィルスィラ)の中から現れる」と断言していた。クラシー師によれば「マフディーとなられるお方は、数多くの予兆を通して自らが救世主であることを自覚するであろう、そのような予兆のいくつかはイスラーム黎明期に既に起きており、ハディースにもその旨が記録されているが、まだ起きていない予兆もある。それらは明白に土着的な性格を備えている」と言ったとされる。また、マフディー到来の予兆として、彼がシャイフの子馬の背に乗るであろうこと、そして、彼の死後にその墓を覆うドームが建つであろうことを予言した。 ムハンマド・アフマドは、自分の支持者と敵対者の双方によく知られている昔ながらのスーフィーの儀式を引き合いに出して、私は「預言者たちの集会」、ハドラ・ナバウィーヤ(Al-Hadra Al-Nabawiyya, الحضرة النبوية)においてマフディーに指名されたのだ、と主張した。タサウウフにおいてハドラはアーダムからムハンマドに至るまでのすべての預言者だけでなく、存命中に神的な高みに達したと思われたスーフィー聖者たちも大勢が集まる集会を意味すると観念される。ムハンマド・アフマドが幻視したハドラは、サイイド・ウージュード(Sayyid al-Wujūd)つまり、神との合一(ウージュード(英語版))を果たしたサイイドとして知られる預言者ムハンマドが取り仕切り、その側には7人のクトゥブ(Qutb, 軸となる人)がいた、その中で最も年かさの男はガウス・ザマンであった、という。マフディーヤの信仰体系においてムハンマド・アフマドにマフディーの称号を与えたのは、この神秘的なハドラにほかならなかった。マフディーヤにおいては、ムハンマド・アフマドが預言者ムハンマドの心臓の中心で聖なる光の中から生み出されたとか、マフディーヤが永遠にして全宇宙の母体であるとか、生きとし生けるものすべてが生まれたときからマフディー(救世主、ムハンマド・アフマドを指す)の主張を知っているなどといった、多くの中心教義があったが、それらすべての源となっていたのが、このハドラであった。 イスラームの布教が始まったまさにその黎明期、ムスリム共同体であるウンマは預言者ムハンマドと正統カリフたちの指導の下に1つにまとまっていた。ムハンマド・アフマドはマフディーヤにその頃への回帰という枠組みを与えるため、自らのマフディー宣言と預言者の事績との間に多くの対称関係が構築されるように腐心した。例えば、彼は自分自身のことを「ハリーファ・ラスールッラー(Khalifat Rasul Allah, خليفة رسول الله)」つまり「神の預言者の代理人」と言及するとともに(ラスールッラーは預言者ムハンマドの別名)、側近4人を「アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリー」と呼んだ。さらには自分に従う者たちを他のスーフィーのセクトの信者と区別するため、彼らを「ダルヴィーシュ」という言葉で呼ぶことを禁止し、「アンサール」という称号で言い換えさせた。 マフディー(導かれし者)に関する教義と伝説がスーダンの人々の心をとらえたため、この原理主義的世界観は宗派を越えて広まった。これらの教義の多くは根拠のないハディース(伝承)に由来したものである。若しくは、歴史的東スーダンに古くからあった神話、シーア派の教義、スーフィー的伝承文化が1つにまとまっていってできたものである。イスラームの世紀への変わり目にはマフディー(導かれし者)が自ら姿を現すと信じられていたし、その出現は時の終わりを告げるものであると信じられていた。マフディーは信仰に新たな息吹を吹き込み、分裂したウンマの再統一をなすとされ、その統治は8年間続くとされていた。そしてマフディーは反救世主、ダッジャール(al-Dajjal)との戦いで命を落とし、その統治は終わると信じられていた。ダッジャールはその後に、アン=ナビー・イーサー(Nabi 'Isa)の再来により打倒されるとされていた。
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