マフディー教徒の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/23 20:24 UTC 版)
「ラス・アルラ」の記事における「マフディー教徒の侵入」の解説
マフディー(救世主)ムハンマド・アフマド 1889年、マフディー教徒ら60,000の軍勢が聖戦を発動し、スーダン国境からエチオピア領に侵入を開始した(マフディー戦争)。エチオピアはエチオピア正教を国教とするキリスト教国家だが、国民の30%はイスラム教徒であり、彼らは様々な権利を制限されていた。この対応を誤れば、イスラム教徒(スンニ派)が多い遊牧民オロモ人と結びつく危険性があった。そのため皇帝ヨハンネスは自ら軍を率いることを決め、ラス・アルラを補佐役としてマフディー教徒の拠点を攻略していった。その攻撃は順調に進行し、次々とマフディー教徒はスーダンに追いやられていったとされている。しかし同年、ヨハンネスは戦死する。戦闘中に心臓上部を撃ち抜かれたのが、その死因だった。
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