イギリス首相に
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「ゴードン・ブラウン」の記事における「イギリス首相に」の解説
2007年6月27日、ブラウンは正式に首相就任し翌28日に新政権が発足した。英国首相の交代は10年ぶりで西欧の主要国では2005年以来独、伊、仏で政権交代が続いており、英新首相の登場ですべて新指導者の時代に入ることになった。 長年政権中枢にあったブラウンは首相職も着実にこなし、安定感ある仕事振りが評価されて、労働党の支持率は保守党を上回った。このため9月の労働党大会で党内から年内の解散を求める声が上がり、10月初頭に政局は緊迫した様相を見せたが、保守党の提示した減税案が好感されて支持率で猛追されたこともあり、解散は断念に追い込まれた。この判断は保守党はもとより労働党内からも強い批判を浴び、以後「優柔不断」との評が絶えなくなった。11月に入ると、ノーザン・ロック銀行の経営危機への対応や歳入関税庁による個人情報2500万人分の紛失事件、党の違法献金問題などを受けて支持率が逆転した。 明けて2008年1月には献金疑惑で実力者のピーター・ヘイン(英語版)雇用年金・ウェールズ相が辞任に追い込まれた。3月から4月にかけては経済情勢の悪化や北京オリンピックの聖火リレーを巡る対応からも批判を浴び、党の支持率は過去25年で最低、保守党との差も過去20年で最大の水準に開いた(労働党27%、保守党43%)が、これはチェンバレン首相を超える英近代史上でも急速かつ大幅な支持率下落であるという。5月の統一地方選では、労働党はロンドン市長の座を失ったのをはじめ、得票率で自民党を下回り第三党に転落するという過去40年で最大の惨敗を喫した上、6月のテロ対策法改正案では与党の大量造反のため一部野党の協力を仰がざるを得ず、同年秋の労働党大会では党内の退陣圧力をかわすのに精一杯という有様だった。もっとも秋のリーマン・ショックを受けた金融不安では公的資金注入などで迅速な対処を見せたことから、一部で「欧州の救世主」などと賞賛され、支持率も一時的に上昇。余勢を駆っての解散が取りざたされるなどした。 しかし2009年に入ると英経済が17年振りの景気後退に入るとともにポンド安・金融危機が一層深刻化する中で経済運営への信頼も揺らいだ。春には国会議員の不明朗な経費請求問題への対応で後手に回り強い批判を浴びるとともに、元グルカ兵の永住権問題で野党動議の可決を許すなど窮地は深まるばかりで、労働党の支持率は史上最低の22%に低下した(保守党は45%)。6月に入ると主要閣僚がスキャンダルで相次いで辞任し、党内で党首交代を求める電子メールが出回るなど「ブラウン降ろし」の動きが公然化した。結局、統一地方選で労働党は250議席減らし大敗。ダービーシャーなど北部4州の議席を全て保守党に奪われる事態となった。ブラウンは「労働党にとって悲痛な敗北だ」とコメントしたが、内閣改造を行い続投を表明した。しかし、辞任した閣僚からも公然と退陣要求が出た。 2009年9月、イギリス政府が半世紀以上に渡って個人を対象としたネガティブ・キャンペーンを継続してきたことに関して、アラン・チューリングへようやく謝罪した。 2010年に入ると保守党との支持率差をやや縮めたが、依然として過半数獲得の見込みは立たないまま、5月6日に総選挙を実施。ブラウンは経済政策の成果などを強調し選挙に臨んだが、議席を100近く減らして過半数を大きく割り込み、選挙後に自民党などと連立を模索したが、政権維持は困難な状況となった。 詳細は「2010年イギリス総選挙」を参照 労働党内からも辞任を求める声が強まり、5月10日、ブラウンは秋の党大会で次の党首が選ばれるまで党首としてとどまり、その後辞任すると述べた が風当たりは収まらず、翌5月11日に退陣を表明した。その後については要職につくことはないバックベンチャー(英語版)として議会後方席に残る意思表示をした。
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