CDU党首時代
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「アンゲラ・メルケル」の記事における「CDU党首時代」の解説
CDU党首とCDU/CSU連邦議会議員団長というショイブレのポストは党首がメルケルに、議員団長がフリードリヒ・メルツCDU財務担当にと別々に引き継がれたように、旧東独出身のプロテスタント、女性であり、しかも離婚歴のあるメルケルは、CDUでは「リベラル派」とみなされ、保守本流からは、懐疑の目で見られていた。 トップのヤミ献金疑惑にショックを受けたCDUの地方党員・一般党員が、保守本流からは外れるメルケルを党首に押し上げた。実際のところ、州首相の経験もなく、連邦議会議員団長でもなかったメルケルは連邦首相への通例のコースからは外れており、党内権力基盤も弱かった。「コールのお嬢さん」(Kohls Mädchen) と呼ばれていたのがその証拠の一つで、内閣の旧東ドイツ出身者と、女性の割合を増やすための数合わせに過ぎないと、コール政権時代は見られていた。 しかしメルケルは、その後着々と権力基盤を確実にしていく。2000年の時点で、保守本流を代表し将来の首相候補と嘱望されていたのは、1999年にSPDの強かった「赤いヘッセン州」で、ハンス・アイヒェル州首相を破ったローラント・コッホであったが、コッホが率いるヘッセン州CDU支部自体が、2000年にヤミ献金問題の直撃を受け、全国レベルで保守陣営を代表できなくなった。 2002年の総選挙では、姉妹政党であるキリスト教社会同盟 (CSU) のエドムント・シュトイバー党首兼バイエルン州首相が、保守陣営の首相候補となる。1月11日に行われたその協議の際、メルケルは首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約があったといわれている。この総選挙は野党連合の惜敗に終わり、シュトイバーの初のバイエルン出身首相という野望は潰えたが、メルケルは選挙後に、メルツCDU/CSU連邦議会議員団長から、その地位を奪い取る。 国政でのSPDと同盟90/緑の党の連立与党の不人気にも助けられて、州政レベルでCDUはその後確実に政権を奪っていき、2004年のホルスト・ケーラー連邦大統領の擁立にも成功する。メルケルは以前のように一般党員、地方党員だけではなく、旧西独出身の保守本流の政治家達も一目置かざるを得ないやり手の政治家に成長した。 さらに2005年に入り、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州とノルトライン=ヴェストファーレン州での州議会選挙のCDU勝利により、シュレーダー首相の賭けで前倒し実施されることになった2005年の連邦議会選挙を、CDU/CSUの首相候補かつ初の女性首相候補、初の東独出身候補として戦うことになった。この頃にはかつてのあだ名「コール(石炭 (Kohle) と発音が似ている)のお嬢さん」と引っかけて「鉄のお嬢さん」(Eisernes Mädchen) と呼ばれるようになった。 これには「鉄の女」と呼ばれた、マーガレット・サッチャー元イギリス首相に比しての意味合いもある。2人には、科学者出身・保守系・女性政治家という複数の共通項があるためである。また Eisernes Mädchen のもう一つの意味は、中世の拷問用具である「鉄の処女」であり、メルケルが選挙戦で掲げていた、ラディカルなネオリベラル改革を左派陣営が揶揄して、こう呼んだ。
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