CDU党首への道
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「ヘルムート・コール」の記事における「CDU党首への道」の解説
1930年4月3日、ドイツのバイエルン州、プファルツ地方のルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(現在はラインラント=プファルツ州)に、バイエルンの財務官吏の3番目の子としてカトリック教徒の家庭に生まれた。兄の一人であるヴァルターは1944年11月にドイツ国内で空襲を受けて戦死するが、コール自身は戦争末期にヒトラーユーゲントで軍事教練を受け、ドイツ空軍の対空砲補助員として徴集されたものの、生年のわずかな差が影響して戦闘には参加しなかった。早くもギムナジウム在校中の1946年にキリスト教民主同盟(CDU)に入党した。その後1950年から、フランクフルト大学およびハイデルベルク大学で法学・歴史学・政治学を学び、1956年から同大学で助手を務めて1958年に「プファルツにおける政治変遷と政党の再建」という論文で博士号を取得する。翌年鉄工所の経営や産業団体の顧問を務め、1948年からの知り合いだったハンネローレ・レンナーと結婚する。2人は2男をもうけた。 コールはCDUの青年団組織 Junge Union (JU)の地元での設立にかかわり(1947年)、在学中の1953年に党の州支部事務局に加入した。1954年には州のJU副代表、翌年州の党執行部委員に就任した。1959年には地元ルートヴィヒスハーフェン郡の党代表となり、翌年ルートヴィヒスハーフェン市議会の党議員団長。1963年からラインラント=プファルツ州議会の党幹事長。1966年、党の州支部代表に就任し、同時に党の連邦代表委員の一人となる。1969年5月19日にラインラント・プファルツ州首相に就任し、CDU副党首となる。州首相として郡の再編成とトリーア大学・カイザースラウテルン技術大学の創建にかかわった。彼の地元での有力支持勢力は産業界であった。 1971年、クルト・ゲオルク・キージンガーの後継党首選挙に挑むが、ライナー・バルツェルに敗れた。しかしバルツェルは1972年にドイツ社会民主党(SPD)の連邦首相ヴィリー・ブラントに対する建設的不信任案決議が不成立となったことからその威信は著しく低下し、翌年コールが党首に就任した。1976年、初めてドイツ連邦議会選挙に首相候補として挑み、得票率48.6%の好成績を収めて第一党となるが、SPDと自由民主党(FDP)の連立政権からの政権奪取はならなかった。この選挙でコールは連邦議会議員に転じて議員団長となり、州首相を辞任した。1980年の連邦議会選挙では、経験に勝る姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス党首に首相候補の座を譲る忍従を強いられたが、この選挙でもCDU・CSUは勝てなかった。
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