イギリス風景式庭園とピクチャレスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:19 UTC 版)
「庭園史」の記事における「イギリス風景式庭園とピクチャレスク」の解説
「イギリス式庭園」、「フランス風景式庭園」、および「ピクチャレスク」も参照 中世イギリスでは森林地帯が様々な役割を果たしていたが、その一つはジェントリのためのゲームを生み出すことにあった。貴重な土地を持つ領主は、王族の訪問時に狩りのために動物の賜物を提供することが期待された。自然のなかにあるにもかかわらず、すべての設備が揃っているように見えるならば、森林に囲まれた荘園の館は地位、富、権力を象徴しうる。産業革命後にイギリスの林業は縮小し、もはや存在しない。これに対し、田園都市運動(garden city movement)は20世紀初頭の工業地帯に都市計画を導入し、公害などの工業の悪影響を相殺した。 18世紀のイギリス庭園に影響した流派はいくつかあるが、そのうちのひとつが家の周囲への植林であった。17世紀半ばまでには低木の植栽が一貫したものとなり、視覚的にも美観的にも好ましいと見なされた。中世イギリスでは、森林地帯は狩猟目的に利用されていたが、18世紀のパターンは実用性から感性を喜ばせる設計へと園芸のアプローチがさらに逸脱したことを示す。 同様に、イギリスのプレジャー・ガーデン(英語版)は中世の木立の影響を受けており、その一部は18世紀にも残存していた。この影響は低木の植え込みという形で現れ、時には迷路または迷路のような形で整理されている。また、古代からあるものだが、下層植物(英語版)に光が入るようにするためのシュレッド(Shredding)は初期庭園の共通の特徴となった。シュレッドを用いて作られた庭の木立は、果樹園、香りのよいハーブや花々、苔の生えた小道などを理想とした。 こうしたなか、1800年前後に当時支配的だったランスロット・ブラウンやハンフリー・レプトンのマイルドな設計スタイルに対する批判が高まり、現地の特性を表す廃墟を含む絵のような(ピクチャレスク)美しさが必要だと論じられた。 1789年にウィリアム・ギルピン(英語版)が『ピクチャレスク美に関する所見』にてピクチャレスクという概念を発表し、それを人間の手入れがされていない自然の景色が持つ視覚的な特質だとした。ホブハウスが挙げたこのピクチャレスクの主要素である荒々しさ、急な変化、不規則性は大きな反響を呼び、リチャード・ペイン・ナイト(英語版)などはパラーディオ様式のダウントンとゴシック建築の塔、無骨な岩を置いてピクチャレスク式庭園を造り上げた。また、ピクチャレスクにおいては、ギリシア式や中国式、オスマン式といった外来の装飾を加えることも好まれた。 一方、フランスのピクチャレスクに見られる素朴さは17世紀オランダの風景画や、フランソワ・ブーシェやユベール・ロベールといった18世紀フランスの芸術家らの作品への憧れから派生した。
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