イギリス館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:40 UTC 版)
イギリス館(Englischer Bau)は、フリードリヒ5世の妃で冬の王妃とも呼ばれる、イギリス王女エリザベス・ステュアートに由来する。エリザベス・ステュアートは、メアリー・ステュアートの孫で、チャールズ1世の姉にあたる人物である。その美しさから「ブリテンの真珠」あるいは「慈愛の王妃」と呼ばれた。また夫であるフリードリヒ5世のボヘミア王位がきわめて短く名目上のものに過ぎなかったことから「冬の王妃」としても知られている。エリザベスはスコットランド王ジェームズ6世、すなわち後のイングランド王・アイルランド王ジェームズ1世の、成人した唯一の娘である。彼女の名前はイングランド女王エリザベス1世にちなんで名付けられた。1612年にイギリス王への手紙を携えた2人のプファルツ選帝侯の使者が到着した。手紙は両者が望んだ同盟締結の計画であった。その後フリードリヒ5世自身が求婚のためにイングランドを訪れた。 王女は初め「選帝侯に過ぎない」フリードリヒ5世との結婚を望んでいなかったが、フリードリヒ5世の容貌はイングランドの人々とまだ16歳であった王女の心を捕らえた。2人は、当時の夢のカップルとなったのである。こうして選帝侯妃となったエリザベスはフリードリヒ5世にベーメン王即位を受諾するよう勧め、結果フリードリヒ5世は白山の戦いで彼女と離ればなれとなり、1632年に亡くなるまで逃亡者としての生活を送ることとなった。彼女自身も親族のイギリス王からの援助はあてにできない状況であった。三十年戦争終結後エリザベスは3男ループレヒトとともにハイデルベルクに戻ろうとしたが、次男である選帝侯カール1世ルートヴィヒに拒絶された。当時のカール1世ルートヴィヒは、そうでなくとも、シャルロッテ・フォン・ヘッセン=カッセルとの結婚、マリー・ルイーゼ・フォン・デーゲンフェルトとのスキャンダル、戦後の侯領再建でひどく混乱した状況にあったためである。 この建築の建設には、エリザベスと共にハイデルベルクに来たサロモン・ド・コウやイニゴー・ジョーンズが関わっている。 イギリス館の建設は防衛という城の基本的機能を無視して行われた。堀に橋が架けられ、敵にとっては侵入がたやすくなった。 現在は廃墟となっているイギリス館はハイデルベルク城最後の大規模な建築であった。この建物は城の区画外に建てられ、ディッケン塔と樽棟の間に位置した。イギリス館の下には大きな騎士の階段が設けられた。 現在、この遺構では城内祝祭演劇が上演される。500m2の広場には約300席が設けられる。
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