イギリス首相へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:39 UTC 版)
1997年、バッキンガム宮殿へ首相任命式に訪れる。エリザベス2世はブレアに「あなたは私の10人目の首相です。最初はウィンストン。あなたが生まれる前のことね」と語りかけた。後にブレアは「彼女は元首であり、私は彼女の首相だった」と振り返る。 首相1期目、イギリス最後の植民地だった香港を中華人民共和国に引き渡す返還式典に出席し、大英帝国の事実上の終焉とされた。また、ブレアは北アイルランド問題の解決に努め、アイルランド首相のバーティ・アハーンとともに北アイルランド和平に向けた協議を進めた。そして1998年にイギリスとアイルランドの間でベルファスト合意(聖金曜日協定)を締結した。アメリカのビル・クリントン政権とは同じ第三の道を掲げる中道左派政権として協力し、クール・ブリタニアと呼ばれる国家ブランド戦略も打ち出した。 2001年6月の総選挙で、413議席とほぼ前回並みの議席数で圧勝した。2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが起きるとジョージ・W・ブッシュ大統領の対テロ戦争を支持して英米関係を強化し、対米屈従であるとして「ブッシュのプードル」とも揶揄された。 2005年5月5日実施の総選挙でも、議席数は356(この時の総議席数は646、過半数は324)と大幅に減ったものの勝利を収め、労働党史上初の3期連続政権を実現させた。しかし、ブレア自身は首相として闘う最後の選挙であると明言していたため、3期目途中での党内ライバルであるゴードン・ブラウンへの党首、首相職の禅譲は既定路線となっていった。 アフガニスタン紛争とイラク戦争への批判が高まるにつれ支持率は低下した。一方で演説の巧みさから国民を団結させることができた。貧困問題や地球温暖化問題、途上国債務問題など地球的難題に積極的に取り組む一方、内政では15年以上に及ぶ景気拡大を実現した。 ブレアは2001年と2005年と2006年に反テロ法を成立させ、監視カメラを張り巡らしてイギリスを監視社会化させてIDカードの全国民義務化を掲げて2006年に国民IDカード法も成立させるなどテロ対策を強化してきたが、スペイン列車爆破事件など欧州に及び始めていたテロが、ついにテロ被害の空白地帯だったイギリスにまで波及し、2005年7月7日にロンドン同時爆破事件がグレンイーグルズ・サミット開催中に発生、同年12月には最大野党、保守党が若手のデービッド・キャメロンを党首に選出すると、支持率で与野党が逆転するようになった。 さらに労働党議員の造反によって新しいテロ対策の法案が否決されたことや、地方議会の選挙で労働党が大きく議席を減らしたことなど、政権の弱体化が取りざたされるようになり、早期退陣論は強まっていった。加えて2006年3月にはブレアとその側近が政治資金を得る目的で一代貴族創設に関与した疑いが持たれ、栄典濫用防止法違反の疑いで、一時は事情聴取を受けるに至った。 こうして9月7日、2007年秋までに退陣する意向であると首相官邸の報道官が表明した。
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