イギリス騎兵の突撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:05 UTC 版)
「ワーテルローの戦い」の記事における「イギリス騎兵の突撃」の解説
我が軍の騎兵将校たちは馬を疾走させる悪ふざけに夢中になってしまった。彼らは置かれた状況を考慮せず、敵前で機動していると思ってもおらず、自制することも予備を控置することもしなかった。 — ウェリントン、 この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(Household Brigade)の名で知られる第1騎兵旅団(英語版)(エドワード・サマセット[要リンク修正]少将)と連合騎兵旅団(Union Brigade)の名で知られる第2騎兵旅団(英語版)(ウィリアム・ポンソビー(英語版)少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。 およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった。 2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している。 近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。 胸甲騎兵へのサーベルの一撃は火鉢を叩くのと同じ音がした。 — エドワード・サマセット卿、 近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール少将)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで方陣を組む第1旅団(シュミット少将)と出くわした。 左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に第92歩兵連隊(英語版)(Gordon Highlanders)の兵士の幾人かが馬の鐙金にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている。中央左側では第2竜騎兵連隊(Scots Greys)が第1師団第2旅団(ブルジョワ少将)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(Inniskillings)はその他のフランス軍第1師団(キオ少将)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ少将)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている。だが、英蘭軍の左端ではデュリット(英語版)将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。 近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官ジェームズ・ハミルトン(英語版)は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された。 この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(Chevau-léger)連隊に反撃を命じた。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴィヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および驃騎兵そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー騎銃兵(英語版)を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった。 連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(Life Guards)と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(Life Guards)と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(Blues)は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している 20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった。
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