イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年の意味・解説 

イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 20:37 UTC 版)

イギー・ポップ」の記事における「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」の解説

ザ・ストゥージズ解散後1971年9月、ダニー・フィールズからの紹介イギーデヴィッド・ボウイとマクシズ・カンサス・シティ(英語版)で会い彼の所属事務所メインマンに誘われた。イギー誘い受けて事務所契約しその結果コロムビアから2枚のアルバムレコーディング契約手に入れることになった1972年3月イギーデヴィッド・ボウイマネージャーでありメインマンの社長だったトニー・デフリーズ(英語版に連れられてロンドンに向かうと、バックバンド探すように指示された。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期作曲パートナー務めていたジェームズ・ウィリアムソンロンドン呼び2人バックバンド探し始めた事務所当初、ピンク・フェアリーズ(英語版)とのコラボレート提案した2人断りオーディション新しメンバー探したものの、意に沿う人材が見つからず難航したロンドン向かった当初イギーは全く新しバンドを組むつもりではいたものの、最終的にウィリアムソン提案ロン・アシュトンベーシスト転向することを前提に、アシュトン兄弟呼び寄せることにした。この提案ロン・アシュトン受け入れたため、結果的にザ・ストゥージズ再結成することになるが、「イギーメイン据えたい」という事務所の意向からバンドは「イギーザ・ストゥージズ」と名乗ることになり、実際にこのメンバー製作されアルバムロー・パワー英語版)』ではそのバンド名がクレジットされている。 1972年7月15日再始動したイギーザ・ストゥージズロンドンキングスクロス地区英語版)にあるキングスクロス・シネマでお披露目ギグ行い、これを成功させた。ここで披露した曲はザ・ストゥージズ末期書かれたものが中心だったが、事務所がこれを気に入らず新たな曲を書くように要求して他の仕事入れなかったため、バンドは2ヶ月ほど作曲リハーサル明け暮れることになった1972年9月10日に『ロー・パワー』のレコーディング始まったが、予定されていたデヴィッド・ボウイプロデュースイギー断ったことに加えボウイ自身も初の大規模なワールドツアー最中事務所もその対応に忙殺されており、レコーディングスタジオにはスタジオエンジニアがいた程度事務所関係者同席しておらず、事実上放置状態で制作進められることになった十分にリハーサルされていたこともあってレコーディング1ヶ月程度終了したが、事務所楽曲気に入らないことに加えてミックス稚拙なのだったことを問題視しボウイリミックス依頼するように指示するとともにメンバー全員ロサンゼルス移動させた。メンバーはビバリーヒルズ・ホテル(英語版)に滞在し、そこでボウイ会った。ツアースケジュールを1日だけ空けて出向いたボウイは、24トラック中3トラックしか使用されていない上、その3トラック楽器ごとに分離録音されていないというマスターに手を焼きヴォーカルギター目立たせる一方で低音が目立たなくなる形に妥協することで仕上げたミックスダウン完了後、事務所メンバービバリーヒルズからハリウッド移動させた。このような騒動経てロー・パワー』は1973年2月リリースされるが、キングスクロスギグ当時基準では過激なのだったことから事務所バンドツアーに出すことに消極的で、加えてアルバムの内容も気に入らなかったことから、ツアープロモーション活動企画することなくバンドハリウッド放置した結果的にロー・パワー』はプロモーションがほとんど行われないことになり、『ファン・ハウス』に続いて商業的に失敗した放置状態に苛立ち募らせていたイギーだったが、ある日イギー滞在していたホテルにデフリーズが訪れミュージカルピーターパン」への出演提案した見当違いとも言える仕事提案イギー激怒して断り、これがきっかけとなってそれまで意向無視した彼らの行動手を焼いていた事務所1973年5月頃にザ・ストゥージズ解雇した事務所解雇されたが、コロムビア社長クライヴ・デイヴィス副社長スティーヴ・ハリスは彼らを見捨てておらず、ハリス新たにマネージャーとなったジェフ・ウォルドに『ロー・パワー』のプロモーションツアーを提案したウォルドはこの提案受け入れ1973年7月30日に「Iggy at Max's at Midnight」と銘打たれニューヨークのマクシズ・カンサス・シティの公演皮切りにプロモーションツアーを開始した。このツアーイギーステージングこれまでになく自傷的で過激なものとなった1973年7月31日には、マクシズ・カンサス・シティで割れたガラステーブルの上に転がるというパフォーマンス(またはアクシデント)が発生した割れたガラス怪我をするとその傷口から出る血を観客振りまいた。同夏のミシガン州ライブでは観客食べかけスイカ投げつけ、ステージ上で嘔吐したスイカ当たった女性は軽い脳震盪起こした。 しかし、新たなマネージャー計画するツアー日程著しく非効率なものでバンド消耗させ、かつ経済的に十分に満たされないなど体力面、経済面双方厳しい状況続いた1973年末、クライブ・デイヴィスコロムビア社長解任され庇護者がいなくなったザ・ストゥージズ2枚目のアルバムリリースすることなく1974年初頭契約解除された。これにより、ザ・ストゥージズ商業的な先行き不透明になってしまう。 1974年2月ミシガン州デトロイト近郊小規模なギグ行なったザ・ストゥージズはそこでスコーピオンズという暴走族暴力沙汰起こし、更に翌日プロモーションのために出演したラジオ番組で、イギーデトロイトのミシガン・パレス(英語版)でギグを行うから来い暴走族挑発したところ、スコーピオンズメンバー名乗る人物から殺害予告電話入った当日ギグはこの一件ナーバスになったイギーステージ上から観客挑発罵倒し続けたために様々なものがステージ投げつけられるという大変な状況に陥り、結果それまでツアー疲弊していたバンドは、この騒動引き金となってイギー提案解散することになった8月11日ロサンジェルスライブでは、The Murder of a Virgin称して自分鞭打たせるパフォーマンス行いその後血だらけになったまま、黒人観客人種差別的な暴言をはき怒らせステージ持参していたナイフで自らを刺すよう挑発した。 同年Toledoでのライブではイギーを嫌うファンたちは、彼が観客向かって頭からダイブすると、観客は彼が地面落ちるように受け止めず避けた

※この「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」の解説は、「イギー・ポップ」の解説の一部です。
「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」を含む「イギー・ポップ」の記事については、「イギー・ポップ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」の関連用語

イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイギー・ポップ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS