イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年
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「イギー・ポップ」の記事における「イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年」の解説
ザ・ストゥージズ解散後の1971年9月、ダニー・フィールズからの紹介でイギーはデヴィッド・ボウイとマクシズ・カンサス・シティ(英語版)で会い、彼の所属事務所メインマンに誘われた。イギーは誘いを受けて事務所と契約し、その結果、コロムビアから2枚のアルバムレコーディング契約を手に入れることになった。1972年3月、イギーはデヴィッド・ボウイのマネージャーでありメインマンの社長だったトニー・デフリーズ(英語版)に連れられてロンドンに向かうと、バックバンドを探すように指示された。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期に作曲パートナーを務めていたジェームズ・ウィリアムソンをロンドンに呼び、2人でバックバンドを探し始めた。事務所は当初、ピンク・フェアリーズ(英語版)とのコラボレートを提案したが2人は断り、オーディションで新しいメンバーを探したものの、意に沿う人材が見つからず難航した。ロンドンに向かった当初のイギーは全く新しいバンドを組むつもりではいたものの、最終的にウィリアムソンの提案でロン・アシュトンがベーシストへ転向することを前提に、アシュトン兄弟を呼び寄せることにした。この提案をロン・アシュトンが受け入れたため、結果的にザ・ストゥージズが再結成することになるが、「イギーをメインに据えたい」という事務所の意向からバンドは「イギー&ザ・ストゥージズ」と名乗ることになり、実際にこのメンバーで製作されたアルバム『ロー・パワー(英語版)』ではそのバンド名がクレジットされている。 1972年7月15日、再始動したイギー&ザ・ストゥージズはロンドンのキングスクロス地区(英語版)にあるキングスクロス・シネマでお披露目ギグを行い、これを成功させた。ここで披露した曲はザ・ストゥージズ末期に書かれたものが中心だったが、事務所がこれを気に入らず、新たな曲を書くように要求して他の仕事を入れなかったため、バンドは2ヶ月ほど作曲とリハーサルに明け暮れることになった。1972年9月10日に『ロー・パワー』のレコーディングが始まったが、予定されていたデヴィッド・ボウイのプロデュースをイギーが断ったことに加え、ボウイ自身も初の大規模なワールドツアーの最中で事務所もその対応に忙殺されており、レコーディングスタジオにはスタジオエンジニアがいた程度で事務所の関係者は同席しておらず、事実上の放置状態で制作が進められることになった。 十分にリハーサルされていたこともあってレコーディングは1ヶ月程度で終了したが、事務所は楽曲が気に入らないことに加えてミックスが稚拙なものだったことを問題視し、ボウイにリミックスを依頼するように指示するとともにメンバー全員をロサンゼルスに移動させた。メンバーはビバリーヒルズ・ホテル(英語版)に滞在し、そこでボウイと会った。ツアースケジュールを1日だけ空けて出向いたボウイは、24トラック中3トラックしか使用されていない上、その3トラックも楽器ごとに分離録音されていないというマスターに手を焼き、ヴォーカルとギターを目立たせる一方で低音が目立たなくなる形に妥協することで仕上げた。ミックスダウン完了後、事務所はメンバーをビバリーヒルズからハリウッドに移動させた。このような騒動を経て『ロー・パワー』は1973年2月にリリースされるが、キングスクロスのギグが当時の基準では過激なものだったことから事務所はバンドをツアーに出すことに消極的で、加えてアルバムの内容も気に入らなかったことから、ツアーやプロモーション活動を企画することなくバンドをハリウッドに放置した。結果的に『ロー・パワー』はプロモーションがほとんど行われないことになり、『ファン・ハウス』に続いて商業的に失敗した。 放置状態に苛立ちを募らせていたイギーだったが、ある日、イギーが滞在していたホテルにデフリーズが訪れ、ミュージカル「ピーターパン」への出演を提案した。見当違いとも言える仕事の提案にイギーは激怒して断り、これがきっかけとなって、それまでも意向を無視した彼らの行動に手を焼いていた事務所は1973年5月頃にザ・ストゥージズを解雇した。 事務所は解雇されたが、コロムビア社長のクライヴ・デイヴィスと副社長のスティーヴ・ハリスは彼らを見捨てておらず、ハリスは新たにマネージャーとなったジェフ・ウォルドに『ロー・パワー』のプロモーションツアーを提案した。ウォルドはこの提案を受け入れ、1973年7月30日に「Iggy at Max's at Midnight」と銘打たれたニューヨークのマクシズ・カンサス・シティの公演を皮切りにプロモーションツアーを開始した。このツアーでイギーのステージングはこれまでになく自傷的で過激なものとなった。1973年7月31日には、マクシズ・カンサス・シティで割れたガラステーブルの上に転がるというパフォーマンス(またはアクシデント)が発生した。割れたガラスで怪我をするとその傷口から出る血を観客に振りまいた。同夏のミシガン州のライブでは、観客に食べかけのスイカを投げつけ、ステージ上で嘔吐した。スイカが当たった女性は軽い脳震盪を起こした。 しかし、新たなマネージャーが計画するツアー日程は著しく非効率なものでバンドを消耗させ、かつ経済的にも十分に満たされないなど体力面、経済面の双方で厳しい状況が続いた。 1973年末、クライブ・デイヴィスがコロムビアの社長を解任され、庇護者がいなくなったザ・ストゥージズは2枚目のアルバムをリリースすることなく1974年初頭に契約を解除された。これにより、ザ・ストゥージズは商業的な先行きが不透明になってしまう。 1974年2月、ミシガン州デトロイト近郊で小規模なギグを行なったザ・ストゥージズはそこでスコーピオンズという暴走族と暴力沙汰を起こし、更に翌日、プロモーションのために出演したラジオ番組で、イギーがデトロイトのミシガン・パレス(英語版)でギグを行うから来いと暴走族を挑発したところ、スコーピオンズのメンバーを名乗る人物から殺害予告の電話が入った。当日のギグはこの一件でナーバスになったイギーがステージ上から観客を挑発、罵倒し続けたために様々なものがステージに投げつけられるという大変な状況に陥り、結果、それまでのツアーで疲弊していたバンドは、この騒動が引き金となってイギーの提案で解散することになった。 8月11日のロサンジェルスのライブでは、The Murder of a Virginと称して自分を鞭打たせるパフォーマンスを行い、その後、血だらけになったまま、黒人の観客を人種差別的な暴言をはき怒らせ、ステージに持参していたナイフで自らを刺すよう挑発した。 同年のToledoでのライブでは、イギーを嫌うファンたちは、彼が観客に向かって頭からダイブすると、観客は彼が地面に落ちるように受け止めずに避けた。
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