イギー&ザ・ストゥージズの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:19 UTC 版)
「ジェームズ・ウィリアムソン」の記事における「イギー&ザ・ストゥージズの崩壊」の解説
事務所に解雇されたザ・ストゥージズは再びウィリアムソンと合流し、再度の薬物禍で判断力の低下していたイギーに代わってウィリアムソンがバンドを仕切ることになった。 この時点ではまだコロムビアは社長のクライヴ・デイヴィスも副社長のスティーヴ・ハリスも彼らを見捨てておらず、ハリスは新たにマネジメントを担当することになったジェフ・ウォルドに『ロー・パワー』のプロモーションツアーを提案した。ウォルドはこの提案を受け入れ、1973年7月30日に「Iggy at Max's at Midnight」と銘打たれたマクシズ・カンサス・シティ(英語版)の公演を皮切りにプロモーションツアーを開始した。その後のミシガン州のライブでウィリアムソンは、当時のキーボード担当だったボブ・シェフ(英語版)を解雇し、代わりにスコット・サーストンを迎え入れている。 このツアーはイギーの自傷的で過激な側面が最大限に発揮されたステージパフォーマンスの連続で、また、ツアー日程も移動には非効率的な内容となっており。加えて利益にも乏しく、持ち出し状態であったために体力面と経済面の双方でバンド活動を圧迫した。さらに悪いことにクライヴ・デイヴィスがコロムビアの社長を解任されてしまい、庇護者のいなくなったザ・ストゥージズは2枚目のアルバムを出すことなく、1974年初頭に契約を解除されてしまう。 疲弊し、商業的にも先の展望が不透明となったバンドはデトロイト郊外における暴走族との乱闘騒ぎと翌日のコンサート会場、ミシガン・パレス(英語版)で観客と揉め事を起こしたことをきっかけに活動を停止してしまった。このミシガン・パレスの騒動の模様は、ライブアルバム「メタリックK.O.(英語版)」で聞くことができる。
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