イギーとの再会と別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:19 UTC 版)
「ジェームズ・ウィリアムソン」の記事における「イギーとの再会と別れ」の解説
1976年。イギリスでのパンクムーヴメント勃興に伴い、ザ・ストゥージズに再評価の波が訪れる。「ゴッドファーザー・オブ・パンク」と呼ばれ、セックス・ピストルズやザ・ダムドが積極的に楽曲をカバーした。加えてその翌年、ボウイのツアーに同行することでウィリアムソンとは袂を分かったイギーがボウイプロデュースの下で初のソロアルバム『イディオット』続けて『ラスト・フォー・ライフ』をリリースして高い評価を得るとともに、商業的にも成功した。 このような状況のため、ザ・ストゥージズやイギーの未発表音源が求められ、お蔵入りとなっていた『キル・シティ』に目を付けたレコード会社ボンプ!がウィリアムソンに正式なリリースを打診した。学費の捻出に苦労していたウィリアムソンはその打診を受け入れ、『キル・シティ』をリリース可能な状態に仕上げて発表した。このアルバムは商業的には成功しなかったが、オルタナティヴ・ロックファンの間で評判を呼び、その評判がイギーの耳に届くことになった。 この頃のイギーはボウイの下を離れてレコード会社アリスタと契約を結び、ちょうど新作のプロデューサーを探していたところだったため、ウィリアムソンに依頼した。ウィリアムソンは相変わらず学費の捻出に苦労していたこともあったが、旧友のスコット・サーストンが作曲者として全面的に参加していた点にも惹かれてプロデュースを引き受けた。この作品『ニュー・ヴァリューズ』でイギーはウィリアムソンにプロデュース以外にも作曲とギタープレイを期待したが、ウィリアムソンがその期待に応えたのは作曲では「ドント・ルック・ダウン」の1曲だけ、ギタープレイを披露したのは「ドント・ルック・ダウン」と「エンドレス・シー」の2曲だけだった。 『ニュー・ヴァリューズ』は期待するほどの売り上げを記録できなかったため、アリスタは間をおかずに新作アルバムの制作をイギーに要望した。イギーは再びウィリアムソンにプロデュースを依頼しウィリアムソンも引き受けたが、この作品『ソルジャー』は時間がなかったために2人は方針のすり合わせもあまりできないまま短期間でメンバーを揃え、連日に渡って休みなくレコーディング作業を続けることになった。このためにスタジオの雰囲気は悪かった。ゲストヴォーカルとして参加したボウイはその様子を見て雰囲気を盛り上げようと、わざとふざけた行動をとったが、それがさらにウィリアムソンの癇に障ったという。最終的にイギーとウィリアムソンの間での考えるスタイルに齟齬があったことが響いて、ベーシックトラックがイギーの構想とは異なるものとなってしまい、ウィリアムソンは解雇された。
※この「イギーとの再会と別れ」の解説は、「ジェームズ・ウィリアムソン」の解説の一部です。
「イギーとの再会と別れ」を含む「ジェームズ・ウィリアムソン」の記事については、「ジェームズ・ウィリアムソン」の概要を参照ください。
- イギーとの再会と別れのページへのリンク