キル・シティ
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『キル・シティ』(Kill City)は、ザ・ストゥージズの元メンバーであるイギー・ポップとジェームズ・ウィリアムソンによるスタジオ・アルバム。1974年にデモとして録音され、1977年11月にレコード会社ボンプ!から発売された。
- ^ どちらの曲もイージーアクション[3]やボンプ!からリリースされた1973〜74年の音源で確認できる[4][5]
- ^ 1974年7月3日、ウィスキー・ア・ゴーゴーを会場としたマンザレクのソロライブではレギュラーセットの演奏を終えた後、ジム・モリソンの3回忌トリビュートとしてイギーをゲストヴォーカルに迎えた特別セットが演奏された[8]。
- ^ セイルズ兄弟は、ジェームズ・ウィリアムソンとも友人付き合いをしていた[8]。
- ^ セイルズ兄弟はバンド活動がなかなか本格始動しなかっため、この頃には離脱していた[6]。
- ^ マンザレクとウィリアムソンはニューヨーク・ドールズをメインに据えたロサンゼルスのフェスで一度だけ共演している。このライブでマンザレクはウィリアムソンのギター演奏は自分が構想するバンドには合わないと考えた(他のメンバーはイギー、ナイジェル・ハリソン、ゲイリー・マラバー、スコット・モーガン)[6]。
- ^ イギーとウィリアムソンが抜けたバンドをバックに従えて製作されたマンザレクのセカンドソロアルバム『ザ・ホール・シングス・スターテッド・ウィズ・ロックンロール・ナウ・イッツ・アウト・オブ・コントロール』にはイギーの名前が「スペシャルサンクス」としてクレジットされている。
- ^ カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)神経精神科病院、現在のUCLAレズニック神経精神科病院
- ^ この治療は有料だったが、イギーの両親がイギー名義による医療保険の契約を継続していたため、ほぼ無償で入院することが可能だった[6]。
- ^ この時のイギーの状態をマンザレクやシュガーマンの関係者たちは「Iggying Out」と呼んでいた[6]。
- ^ ジミーの弟、ゲイリー
- ^ ケイルは当時ロサンゼルスに住んでおり、ザ・ストゥージズのデビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』をプロデュースした関係からイギーと面識もあった。
- ^ スコット・サーストンのアパートでのレコーディングは1974年の春頃に行われた[6]。
- ^ 『イギー・ポップ/アンソロジー』や『Original Punks[11]』など。
- ^ イギーの作曲パートナーはウィリアムソンに限定する、という内容だったと言われる[8]。
- ^ 本作をリリースすることになるボンプ!の創業者グレッグ・ショウは、「あの頃は、契約を得られない素晴らしいバンドがたくさんいた時代だった。ウィリアムソンのような男がイギーの契約を探しに来ても驚くことじゃなかった。だが、当時のイギーはクソ野郎との評判で誰も手を出さず、どことも契約できなかったんだ。」と回想している[8]。
- ^ 全英アルバムチャートで『イディオット』は最高位30位、『ラスト・フォー・ライフ』は最高位28位でゴールドディスクを獲得[12]。
- ^ 元々は『ビヨンド・ザ・ロウ』というタイトルだったが、変更となった。近年、オーストラリアの音楽メディアThe I-94 Bar[14]のフェイスブックに、ウィリアムソンがボンプ!に宛てた経費請求書が掲載され、そこにウィリアムソンが手書きで「タイトルは『ビヨンド・ザ・ロウ』だな。」と書いているのが確認できる。ウィリアムソン自身もこの記事に対してコメントを寄せ、間違いないと認めている[15]。
- ^ ただし、レイダー・レコードは1981年に一度閉鎖されたため、それ以降はドイツのレコード会社ライン・レコード[16]が海外配給を担当した[17]。
- ^ グレッグ・ショウによると本作は世界中で売れたが、配給者に利益の大部分を取られてしまい、1990年代に入るまで全く儲けが出なかったという[8]
- ^ イギーの本名
- ^ 本作のライナーノーツでは、ロサンゼルスのホラー研究サークル「ザ・カウント・ドラキュラ・ソサエティ[23]」のメンバーだったとされているが詳細は不明[24]。
- ^ a b c d e f Deming, Mark. “Kill City - Iggy Pop, Jame Williamson | Songs, Reviews, Credits”. AllMusic. 2020年5月18日閲覧。
- ^ Christgau, Robert (1981). “Consumer Guide '70s: P”. クリストガウ・レコード・ガイド. Ticknor & Fields. ISBN 089919026X 2019年3月10日閲覧。
- ^ “Easy Action - British Rock 'n' Roll Label”. Easy Action. 2020年5月24日閲覧。
- ^ “Iggy & The Stooges* – California Bleeding | リリース”. Discogs. 2020年5月24日閲覧。
- ^ “The Stooges – Heavy Liquid | リリース”. Discogs. 2020年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Trynka, Paul (2007年). Iggy Pop: Open Up and Bleed. Broadway Books. ISBN 978-0-7679-2722-2
- ^ a b “Timeline 1970s | Ray Manzarek of The Doors”. Ray Manzarek of The Doors. 2020年7月3日閲覧。
- ^ a b c d e Ambrose, Joe (2003年1月13日). Gimme Danger: The Story of Iggy Pop. Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-9107-1
- ^ “Ben Edmonds | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月4日閲覧。
- ^ “スピンオフ特番『100% Raw Power インタビュー編』を9/18(月・祝)午前8時~オンエア!”. ラジオNIKKEI. 2018年6月9日閲覧。
- ^ “Iggy Pop & The Stooges* – Original Punks | リリース”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
- ^ “IGGY POP | full Official Chart History | Official Charts History”. 全英アルバムチャート. 2020年7月3日閲覧。
- ^ a b “The Stooges: James Williamson Interview | Features | Clash Magazine”. Clashmusic.com (2010年3月30日). 2020年7月4日閲覧。
- ^ “The I-94 Bar - Real Rock Action from Sydney, Australia, via The Bowery and The Motor City”. The I-94 Bar. 2020年7月4日閲覧。
- ^ Kill City nearly became Beyond The Law? - Facebook
- ^ “Line Records レーベル | リリース | Discogs”. Discogs. 2020年7月4日閲覧。
- ^ a b Kill City - Discogs (発売一覧)
- ^ “Iggy Pop and James Williamson: Kill City (Radar Records)”. Rock's Backpages Library. 2020年7月3日閲覧。
- ^ “Iggy Pop & James Williamson Kill City Review”. BBC - Music - Review of Iggy Pop & James Williamson - Kill City. 2020年7月3日閲覧。
- ^ Tales From The Crypt - For Cryin` Out Loud - Season 2 - Episode 8 - Part 1/3 - YouTube
- ^ “Steve Tanio | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
- ^ “John Harden | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
- ^ “Count Dracula Society | Encyclopedia.com”. Encyclopedia.com. 2020年7月3日閲覧。
- ^ a b キル・シティ・ライナーノーツ. (2010)
- 1 キル・シティとは
- 2 キル・シティの概要
- 3 プロダクション
- 4 リリース
- 5 収録曲
- 6 外部リンク
キル・シティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:19 UTC 版)
「ジェームズ・ウィリアムソン」の記事における「キル・シティ」の解説
ザ・ストゥージズを解散したイギーとウィリアムソンはロサンゼルスに向かい、そこで音楽活動の継続を模索して数回のギグを行なったものの、イギーは薬物依存の克服を目的に治療施設に入所することを決めた。ウィリアムソンはもともとコロムビアでの2枚目のアルバムの素材として準備してあった曲に新曲を加えてアルバムを制作することを考え、自宅のカセットレコーダーに曲を録音し始めた。後にこれはデモテープ制作に発展し、イギーも治療施設から外出許可が出た際にヴォーカル吹き込みのために参加した。プロデュースは当時ロサンゼルスに住んでいたジョン・ケイルにイギーを通じて依頼したが断られたため、ウィリアムソン自身が行った。 こうして仕上がったアルバムは『キル・シティ』として後に知られるようになるが、この時点ではリリースするレコード会社が見つからず、そのままお蔵入りとなった。 この頃、しばらく疎遠になっていたイギーとボウイの親交が復活し、『キル・シティ』の製作中にも2人で当時ロサンゼルスに住んでいたボウイの元を訪れたり、レコーディング中だった『ステイション・トゥ・ステイション』の制作スタジオに顔を出したこともあったという。そして、ボウイは『ステイション・トゥ・ステイション』完成後のツアー(アイソーラー・ツアー)にイギーを同行させることを決めたため、イギーとウィリアムソンはそのタイミングで袂を分かつことになった。
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