キル・シティとは? わかりやすく解説

キル・シティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 14:09 UTC 版)

キル・シティ
イギー・ポップスタジオ・アルバム
リリース
録音 1974年12月
ジミー・ウェッブの個人スタジオ、ロザンゼルスエンシノ
スコット・サーストンの自宅、ロサンゼルスヴェニス
ジャンル
時間
レーベル ボンプ!レコード英語版
プロデュース ジェームズ・ウィリアムソン
イギー・ポップ アルバム 年表
ラスト・フォー・ライフ
(1977年)
キル・シティ
(1977年)
TV Eye:1977 ライヴ
1978年
テンプレートを表示
専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典 評価
オールミュージック [1]
クリストガウ・レコードガイド英語版 B[2]

キル・シティ』(Kill City)は、ザ・ストゥージズの元メンバーであるイギー・ポップジェームズ・ウィリアムソンによるスタジオ・アルバム。1974年にデモとして録音され、1977年11月にレコード会社ボンプ!から発売された。

ザ・ストゥージズ解散後に製作された作品だが、収録曲の「ジョアンナ」と「アイ・ガット・ナッシン」は、どちらも1973年から74年にかけて、『ロー・パワー英語版』リリース以降のイギー&ザ・ストゥージズのライヴで演奏されていた[注 1]

プロダクション

背景

1974年にザ・ストゥージズは解散し、スコット・アシュトンを除くメンバー(イギー・ポップ、ジェームズ・ウィリアムソン、ロン・アシュトンスコット・サーストン英語版)はロサンゼルスに向かった。このうち経済的な問題で住居を借りられなかったイギーは、ウィリアムソンとサーストンのアパートを行き来しつつ、主にウィリアムソンと作曲活動を続けていた[6]
この頃、雑誌編集者でレイ・マンザレクのマネージャーを務めていたダニー・シュガーマンは、元々ザ・ストゥージズのファンだったこともあり、イギーがロサンゼルスに移ってこれまでのマネージャーとの契約も破棄されたことを聞くと、自ら売り込み、イギーのマネジメントを務めることになった[6]
マンザレクは、同年3月に『ザ・ゴールデン・スカラベ英語版』でソロデビューを果たし、バックバンドを従えてソロツアーもしていた[7]が、マネージャーのシュガーマンがイギーとも契約したことを聞くと、イギーをリードヴォーカルに据えた新バンドを構想し[注 2]、ソロツアーの傍、同年春頃からイギー、トニー・セイルズ英語版ハント・セイルズ英語版の兄弟[注 3]をメンバーとした新バンドのリハーサルとイギーをパートナーとした作曲活動を開始した。このため、しばらくイギーはストゥージズの元メンバーとは疎遠になる[6]
8月に入ってソロツアーを終えたマンザレクは新バンドの活動に本腰を入れた始めた[7][注 4]、イギーとは作曲について意見が合わず、加えてジェームズ・ウィリアムソンのバンド参加を巡っても対立し[注 5]、最終的にバンド構想は形にならないまま終焉を迎えた[6][注 6]
マンザレクと別れたイギーは、再び元ザ・ストゥージズメンバーの下に舞い戻り、ジェームズ・ウィリアムソン、スコット・サーストンとのコラボレーションを再開したが、その前後、ダイナーで客に迷惑をかけたということで、ロサンゼルス市警察に検挙され、裁判か依存症治療施設への入院かの選択を迫られた。イギーは治療施設[注 7]への入院を選択し、しばらくの間、治療に専念することになる[注 8][6]
入院することでイギーの行動の自由は制限されたが、この頃のイギーはマンザレクのスタジオ兼自宅に居候しているか、ロサンゼルス中を放浪してトラブルを起こすとシュガーマンが駆けつけるという状態だった[注 9]ため、却って落ち着いてレコーディングに参加する環境が整うことになった[6]
イギーが入院する前後、クリーム英語版誌の編集者でザ・ストゥージズのファンでもあったベン・エドモンズ[9]がイギーとウィリアムソンがまだ作曲パートナーでいることを知り、自身がパトロンとなって2人のデモテープ製作を支援することを決意する。エドモンズはジミー・ウェッブに頼み、彼のスタジオをエンジニア[注 10]の人件費のみで安く借りることに成功し、入院前のイギーに会ってそのことを伝えた[6]
一方、ウィリアムソンはイギーを通じて2曲入りのカセットをジョン・ケイル[注 11]に渡し、デモテープのプロデュースとレコード会社の紹介を依頼していたが、反応が悪かったため[10]、エドモンズの申し出を受け入れた[6]

レコーディング

レコーディングはウィリアムソンとサーストンの2人が中心になって行われた。イギーは週末のみ、ヴォーカル吹き込みのためにウィリアムソンが治療施設まで送迎して参加した。最終的にスタジオレコーディングした曲に、先行してスコット・サーストンのアパートでレコーディングされていた2曲(「ラッキー・モンキーズ」「マスター・チャージ」)を加えてデモテープは完成した[注 12][6]

オリジナルのデモミックスは、様々なコンピレーション[注 13]でリリースされている3曲(「ジョアンナ」「コンソレーション・ブライゼス」「キル・シティ」)を除いては未発表のままである。これらの曲は、ギターのパートが変わっていたり、「ジョアンナ」の場合はサックスが入っていなかったりと、リリース盤とは明らかに異なるサウンドになっている。

レコーディング後の経緯

デモテープの仕上がりに満足したエドモンズは、様々なレコード会社に送付するとともに、後ろ盾を求めて音楽業界の有力者シーモア・ステイン英語版にテープを聞かせて高評価を引き出した。ところが、エドモンズが様々な伝手を辿って売り込みに邁進している最中、イギーのマネージャーになるべく画策していた弁護士ベネット・グロツィエがイギーとウィリアムソンに、自分の方がうまく売り込めるからデモテープを持参するようにと申し出たため、2人は誘いに乗ってスタジオからデモテープを持ち出してしまった。
こうしてデモテープを失ったエドモンズはそれ以上の売り込み活動ができなくなって手を引くことになったが、一方、グロツィエも売り込みに失敗し、更に退院後のイギーの行動制御も難しいことに気がついて手を引いてしまったため、レコード会社との契約は失敗に終わり、デモテープはお蔵入りとなった。
加えて、ウィリアムソンが提示した作曲活動に関する契約[注 14]にイギーが不満を表明したため、2人のパートナーシップも終焉を迎えた[6][注 15]

リリース

1977年、イギーのソロ・アルバム『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』が主にイギリスで成功した[注 16]ことから、イギーの未発表音源が求められたため、好機と見たレコード会社ボンプ!がウィリアムソンに前金を渡してデモテープをリリース可能な状態にするように依頼した。ウィリアムソンはこれを引き受け、前金を利用してスタジオ作業を行い、サックスのオーバーダビングなど、新たなアレンジを施してマスターを完成させた。ボンプ!はこのマスターを『キル・シティ』と名付けて1977年11月にリリースした[13][注 17]

アメリカ国内ではボンプ!自身が配給したが、国外ではワーナー・ミュージック・グループ傘下のレイダー・レコード英語版が配給を担当した[6][注 18][注 19]

本作のリリース直後にマスターテープが紛失し、その後にリリースされたCDはすべてオリジナルの粗悪なグリーン・ビニール・プレスからマスタリングされることになった。これが、このアルバムの音がやや濁っていることの一因となっていたが、2010年、ウィリアムソンとエンジニアのエド・チェルニー英語版が、再発見されたオリジナルのマルチトラックからリミックスを行い、2010年10月19日にボンプ!の提携先アライヴ・レコード英語版から再リリースされた[13][17]

評価

本作は一般的に批評家から高い評価を受けている。
ニュー・ミュージカル・エクスプレスでは音楽評論家のニック・ケント英語版がこのアルバムを「素晴らしいアルバム」と評している[18]
イギーの伝記作家、ポール・トリンカ英語版は、この作品について、イギーの伝記の中で次のように評価した。

新曲のほとんどは、ロサンゼルスでのぎりぎりの生活に影響を受けながらも、そのような環境全てに抗う自身を描いたものだった。

「まともな連中は俺たちの音を嫌う」と歌う「ビヨンド・ザ・ロウ」はマンザレクとの関係を表現している。
タイトル曲の「キル・シティ」は彼自身の苦境を法医学的に描写したものだ。
「瓦礫と海が出会う場所、腐った街に住んでいる。そこは金持ちの遊び場で、俺にとっては装填された銃だ」

これらの心に響く曲は、当時のイギーの苦境を反映している。パワフルで妥協のないこれらの作品は何年もリリースされることなかったが、それらは、外の世界からの関心が全くない中でも、ジム・オスターバーグ[注 20]は、音楽を作ることを余儀なくされていたことを表している。そのインスピレーション、愚かさ、苦しみのすべてをもって、彼は彼自身の人生を偉大な芸術に変えた。[6]

オールミュージックではマーク・デミングがこのアルバムを「マイナーな成功」と評し、次のように書いている。

音楽は『ロー・パワー』よりもオープンでブルージーで、ウィリアムソンのギターは太くパワフルなままだが、ここではピアノ、アコースティック・ギター、サックスのためのスペースを積極的に作っており、アレンジのダイナミクスは閉所恐怖症のような『ロー・パワー』より成熟したアプローチを提示している[1]

BBCミュージックのマーティン・アストンはこのアルバムを「イギーの最も過小評価されているアルバム」「彼が現実の生活に戻るのに役立ったアルバム」と称賛している[19]
イギリスの音楽雑誌「ザ・ワイア英語版」は、本作を「誰も聞いていない間に世界に火をつけた100のレコードドイツ語版」の76位に選んでいる。

メディアでの扱い

1990年5月22日に放送されたTVシリーズ「ハリウッド・ナイトメア」のエピソード「フォー・クライン・アウト・ラウド」で、イギー自身が本作のタイトル曲「キル・シティ」を演奏して登場した[20]。。

収録曲

ジェームズ・ウィリアムソンとスコット・サーストンが作曲した「マスター・チャージ」を除き、全てイギー・ポップ作詞、ジェームス・ウィリアムソン作曲[6]

A面
  1. キル・シティ - 2:20
  2. セル・ユア・ラヴ - 3:36
  3. ビヨンド・ザ・ロウ - 3:00
  4. アイ・ガット・ナッシン - 3:23
  5. ジョアンナ - 3:03
  6. ナイト・テーマ - 1:20
B面
  1. ナイト・テーマ (リプライズ) - 1:04
  2. コンソレーション・プライゼス - 3:17
  3. ノー・センス・オブ・クライム - 3:42
  4. ラッキー・モンキーズ - 3:42
  5. マスター・チャージ - 4:33

参加メンバー

以下のメンバーのうち、中心メンバー(イギー、ジェームズ・ウィリアムソン、スコット・サーストン)以外でスタジオレコーディングに参加したのはブライアン・グラスコックとスティーヴ・トラニオ。彼らはサーストンの誘いを受けて無償で参加した。スタジオ以外では、セイルズ兄弟がウィリアムソンの誘いを受けて、サーストンのアパートで行われた先行レコーディングに、こちらも無償で参加している。サキソフォンのジョン・ハーディンは1977年にウィリアムソンがオリジナルのデモテープに手を加えた際、新たに参加したミュージシャンであり、最初のレコーディングには参加していない[6]

  • イギー・ポップ – ヴォーカル
  • ジェームズ・ウィリアムソン – ギター
  • スコット・サーストン英語版 – キーボード、ベース (「キル・シティ」、「ビヨンド・ザ・ロウ」、「ジョアンナ」、「ナイト・テーマ」)、バッキング・ヴォーカル、スペシャルエフェクト、ハーモニカ
  • ブライアン・グラスコック英語版 – ドラムス、コンガ、アフリカ楽器、バッキング・ヴォーカル、ギロ
  • スティーヴ・トラニオ[21] - ベース、バッキング・ヴォーカル (「セル・ユア・ラヴ」、「アイ・ガット・ナッシン」、「ノー・センス・オブ・クライム」)
  • トニー・セイルズ英語版 – ベース、バッキング・ヴォーカル (「ラッキ・モンキーズ」、「マスター・チャージ」)
  • ハント・セイルズ英語版 – ドラムス、バッキング・ヴォーカル (「ラッキ・モンキーズ」、「マスター・チャージ」)
  • ジョン・ハーディン[22] - サキソフォン
  • ゲイナ[注 21] - バッキング・ヴォーカル (「ナイト・テーマ」)

製作スタッフ[24]

  • ジェームズ・ウィリアムソン - プロデューサー
  • レコーディング・エンジニア - ゲイリー・ウェッブ、ピーター・ヘイデン
  • リマスタリング・エンジニア - エド・チェルニー
  • カヴァーアート - デヴィッド・アレン

脚注

注釈

  1. ^ どちらの曲もイージーアクション[3]やボンプ!からリリースされた1973〜74年の音源で確認できる[4][5]
  2. ^ 1974年7月3日、ウィスキー・ア・ゴーゴーを会場としたマンザレクのソロライブではレギュラーセットの演奏を終えた後、ジム・モリソンの3回忌トリビュートとしてイギーをゲストヴォーカルに迎えた特別セットが演奏された[8]
  3. ^ セイルズ兄弟は、ジェームズ・ウィリアムソンとも友人付き合いをしていた[8]
  4. ^ セイルズ兄弟はバンド活動がなかなか本格始動しなかっため、この頃には離脱していた[6]
  5. ^ マンザレクとウィリアムソンはニューヨーク・ドールズをメインに据えたロサンゼルスのフェスで一度だけ共演している。このライブでマンザレクはウィリアムソンのギター演奏は自分が構想するバンドには合わないと考えた(他のメンバーはイギー、ナイジェル・ハリソン英語版ゲイリー・マラバー英語版スコット・モーガン英語版[6]
  6. ^ イギーとウィリアムソンが抜けたバンドをバックに従えて製作されたマンザレクのセカンドソロアルバム『ザ・ホール・シングス・スターテッド・ウィズ・ロックンロール・ナウ・イッツ・アウト・オブ・コントロール英語版』にはイギーの名前が「スペシャルサンクス」としてクレジットされている。
  7. ^ カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)神経精神科病院、現在のUCLAレズニック神経精神科病院英語版
  8. ^ この治療は有料だったが、イギーの両親がイギー名義による医療保険の契約を継続していたため、ほぼ無償で入院することが可能だった[6]
  9. ^ この時のイギーの状態をマンザレクやシュガーマンの関係者たちは「Iggying Out」と呼んでいた[6]
  10. ^ ジミーの弟、ゲイリー
  11. ^ ケイルは当時ロサンゼルスに住んでおり、ザ・ストゥージズのデビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ英語版』をプロデュースした関係からイギーと面識もあった。
  12. ^ スコット・サーストンのアパートでのレコーディングは1974年の春頃に行われた[6]
  13. ^ イギー・ポップ/アンソロジー英語版』や『Original Punks[11]』など。
  14. ^ イギーの作曲パートナーはウィリアムソンに限定する、という内容だったと言われる[8]
  15. ^ 本作をリリースすることになるボンプ!の創業者グレッグ・ショウ英語版は、「あの頃は、契約を得られない素晴らしいバンドがたくさんいた時代だった。ウィリアムソンのような男がイギーの契約を探しに来ても驚くことじゃなかった。だが、当時のイギーはクソ野郎との評判で誰も手を出さず、どことも契約できなかったんだ。」と回想している[8]
  16. ^ 全英アルバムチャートで『イディオット』は最高位30位、『ラスト・フォー・ライフ』は最高位28位でゴールドディスクを獲得[12]
  17. ^ 元々は『ビヨンド・ザ・ロウ』というタイトルだったが、変更となった。近年、オーストラリアの音楽メディアThe I-94 Bar[14]のフェイスブックに、ウィリアムソンがボンプ!に宛てた経費請求書が掲載され、そこにウィリアムソンが手書きで「タイトルは『ビヨンド・ザ・ロウ』だな。」と書いているのが確認できる。ウィリアムソン自身もこの記事に対してコメントを寄せ、間違いないと認めている[15]
  18. ^ ただし、レイダー・レコードは1981年に一度閉鎖されたため、それ以降はドイツのレコード会社ライン・レコード[16]が海外配給を担当した[17]
  19. ^ グレッグ・ショウによると本作は世界中で売れたが、配給者に利益の大部分を取られてしまい、1990年代に入るまで全く儲けが出なかったという[8]
  20. ^ イギーの本名
  21. ^ 本作のライナーノーツでは、ロサンゼルスのホラー研究サークル「ザ・カウント・ドラキュラ・ソサエティ[23]」のメンバーだったとされているが詳細は不明[24]

出典

  1. ^ a b c d e f Deming, Mark. “Kill City - Iggy Pop, Jame Williamson | Songs, Reviews, Credits”. AllMusic. 2020年5月18日閲覧。
  2. ^ Christgau, Robert (1981). “Consumer Guide '70s: P”. クリストガウ・レコード・ガイド英語版. Ticknor & Fields. ISBN 089919026X. https://www.robertchristgau.com/get_chap.php?k=P&bk=70 2019年3月10日閲覧。 
  3. ^ Easy Action - British Rock 'n' Roll Label”. Easy Action. 2020年5月24日閲覧。
  4. ^ Iggy & The Stooges* – California Bleeding | リリース”. Discogs. 2020年5月24日閲覧。
  5. ^ The Stooges – Heavy Liquid | リリース”. Discogs. 2020年5月24日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Trynka, Paul (2007年). Iggy Pop: Open Up and Bleed. Broadway Books. ISBN 978-0-7679-2722-2 
  7. ^ a b Timeline 1970s | Ray Manzarek of The Doors”. Ray Manzarek of The Doors. 2020年7月3日閲覧。
  8. ^ a b c d e Ambrose, Joe (2003年1月13日). Gimme Danger: The Story of Iggy Pop. Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-9107-1 
  9. ^ Ben Edmonds | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月4日閲覧。
  10. ^ スピンオフ特番『100% Raw Power インタビュー編』を9/18(月・祝)午前8時~オンエア!”. ラジオNIKKEI. 2018年6月9日閲覧。
  11. ^ Iggy Pop & The Stooges* – Original Punks | リリース”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
  12. ^ IGGY POP | full Official Chart History | Official Charts History”. 全英アルバムチャート. 2020年7月3日閲覧。
  13. ^ a b The Stooges: James Williamson Interview | Features | Clash Magazine”. Clashmusic.com (2010年3月30日). 2020年7月4日閲覧。
  14. ^ The I-94 Bar - Real Rock Action from Sydney, Australia, via The Bowery and The Motor City”. The I-94 Bar. 2020年7月4日閲覧。
  15. ^ Kill City nearly became Beyond The Law? - Facebook
  16. ^ Line Records レーベル | リリース | Discogs”. Discogs. 2020年7月4日閲覧。
  17. ^ a b Kill City - Discogs (発売一覧)
  18. ^ Iggy Pop and James Williamson: Kill City (Radar Records)”. Rock's Backpages Library. 2020年7月3日閲覧。
  19. ^ Iggy Pop & James Williamson Kill City Review”. BBC - Music - Review of Iggy Pop & James Williamson - Kill City. 2020年7月3日閲覧。
  20. ^ Tales From The Crypt - For Cryin` Out Loud - Season 2 - Episode 8 - Part 1/3 - YouTube
  21. ^ Steve Tanio | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
  22. ^ John Harden | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2020年7月3日閲覧。
  23. ^ Count Dracula Society | Encyclopedia.com”. Encyclopedia.com. 2020年7月3日閲覧。
  24. ^ a b キル・シティ・ライナーノーツ. (2010) 

外部リンク


キル・シティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:19 UTC 版)

ジェームズ・ウィリアムソン」の記事における「キル・シティ」の解説

ザ・ストゥージズ解散したイギーウィリアムソンロサンゼルス向かい、そこで音楽活動継続模索して数回ギグ行なったものの、イギー薬物依存克服目的治療施設入所することを決めたウィリアムソンはもともとコロムビアでの2枚目のアルバム素材として準備してあった曲に新曲加えてアルバム制作することを考え自宅カセットレコーダーに曲を録音し始めた。後にこれはデモテープ制作発展しイギー治療施設から外出許可出た際にヴォーカル吹き込みのために参加したプロデュース当時ロサンゼルス住んでいたジョン・ケイルイギー通じて依頼した断られたため、ウィリアムソン自身が行った。 こうして仕上がったアルバムは『キル・シティ』として後に知られるうになるが、この時点ではリリースするレコード会社が見つからずそのままお蔵入りとなったこの頃、しばらく疎遠になっていたイギーボウイ親交復活し、『キル・シティ』の製作中にも2人当時ロサンゼルス住んでいたボウイの元を訪れたり、レコーディング中だった『ステイション・トゥ・ステイション』の制作スタジオ顔を出したこともあったという。そして、ボウイは『ステイション・トゥ・ステイション完成後のツアーアイソーラー・ツアー)にイギー同行させることを決めたため、イギーウィリアムソンはそのタイミング袂を分かつことになった

※この「キル・シティ」の解説は、「ジェームズ・ウィリアムソン」の解説の一部です。
「キル・シティ」を含む「ジェームズ・ウィリアムソン」の記事については、「ジェームズ・ウィリアムソン」の概要を参照ください。

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