国家ブランド戦略
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「クール・ブリタニア」の記事における「国家ブランド戦略」の解説
1997年の選挙で、労働党から44歳のトニー・ブレアが選挙に臨み、彼が首相に選出されるとオアシスのリーダー、ノエル・ギャラガーら各界の若手アーティストらが祝意を表しに訪れ話題となった。彼らは、当時からブレアがネオ・リベラリストであることや、後にイラク戦争にのめり込むことなど、予測すらできなかった。「クール・ブリタニア」のフレーズはブレアの当初の新鮮なイメージとともに世間に広まった(これは、1960年代の労働党のハロルド・ウィルソン内閣(1964年 - 1970年)の初期に、ロンドンの若者文化の爆発を表現したキャッチフレーズ「スウィンギング・ロンドン」が広がったことと並行している)。 ブレア首相は早速「クール・ブリタニア」という用語や『登録商標ブリテン』のアイデアを取り入れ、国の主要産業を後押しする国家ブランド戦略を開始した。 今後のイギリスは「クール・ブリタニア」を国家のブランドイメージとする。 その内容は、「若い欲望や活気が渦巻く、多様な文化や未来へのアイデアを生み出す社会」である。 文化を生み出す担い手やそれを広めるメディアなどを「クリエイティブ産業」と規定し、今後の雇用創出・外貨獲得・観光誘致・「クール・ブリタニア」ブランド形成の最重要産業として育成する。 クリエイティブ産業によって、イギリスから先端的『ハイカルチャー』(上流・中流向けの文化)や世界的人気を博する「ポップカルチャー」、世界の将来を規定するような画期的な研究を発信し、世界に「クール・ブリタニア」のイメージを広める。 ブランド形成により、多くの国からの経済投資誘致・観光客誘致・文化関係者移住を促進し、文化産業・芸術産業のよりいっそうの強化や、観光業・サービス業・工業など各種産業の雇用の創出、イギリスをより多様な文化が共生するエネルギーに満ちた社会に変えることを目指し、もって好景気の持続、失業率低下、高齢化防止などを実現する。 ブレア首相は「クリエイティブ産業特別委員会」(Creative Industries Task Force)を組成し、前述のDEMOSのマーク・レナードや、ポール・スミスやリチャード・ブランソンら文化産業の担い手、メディア関係者、学者らを集めて、クリエイティブ産業の振興を協議しさまざまな施策を実行に移した。同時に「広報特別委員会」(Britain Abroad Task Force)を組織してイギリスのブランドイメージを刷新する国家広報戦略を実施させた。政府省庁も再編され、国家遺産省が文化・メディア・スポーツ省(文化省)へと改称され、文化遺産の管理のみならずクリエイティブ産業の振興などにあたることになった。 ブレア政権のクリエイティブ産業振興政策や国家広報戦略の内容は、主に 芸術文化・ポップカルチャー・スポーツ界への、多額の人的・資金的・制度的援助 クリエイティブ産業の海外進出・輸出に向けた官民一体となった後援 広報特別委員会によるキーメッセージ順位づけ・広報ターゲット選定・広報する資産の選定といった「国家広報戦略」の確立 その広報手段である文書ウェブサイト等の刷新、国や地方のかかわる事業に優れたデザイナー・建築家らを大規模に起用する などであった。 たとえばミレニアムに向けた大都市の再開発に斬新な建築家を起用し、B.A.ロンドン・アイやテート・モダンなど大規模な文化・観光施設が誕生した(多くはブレア時代以前からの計画だったが、ブレア政権によって大きく宣伝された)。また宝くじなどによる資金で文化・芸術を大規模に支援した(これもブレア以前からすでに始まっていた)。ブリティッシュ・カウンシル、ブリティッシュ・エアウェイズなど海外に開かれた機関やイギリスを代表する企業のロゴやデザインを先端的なものに一新し、政府の文書やウェブサイト・施設などもデザイナーの手で徹底的に手直しを図ったのもその一例である。
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