イギリスとフランスに渡した解読の成果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:52 UTC 版)
「マリアン・レイェフスキ」の記事における「イギリスとフランスに渡した解読の成果」の解説
戦争が避けがたい状況になり、また常に変更されるエニグマのテンポについていくために必要な単純作業の係員や工業設備、それらのための予算といったリソースがポーランドでは十分でないことが明らかになるにつれ、ポーランド軍参謀本部は政府の同意の下で、エニグマ暗号解読の秘密を同盟国と共有することに決めた。そして、ピレで1939年7月26日に行われたイギリスとフランスの情報機関との会合の際に、ポーランドの解読方法が明らかにされた。 エニグマの解読方法という西の同盟国へのプレゼントは良い時期(第二次世界大戦勃発のわずか1ヶ月前)に手渡された。エニグマが解読しうることを知った西側の暗号専門家はやる気をおおいに高めた。イギリスでは戦争勃発後わずか数ヵ月後にはエニグマ暗号解読に着手しており、1939年12月の半ばまでに少なくとも2セットのジガルスキのシートを仕上げた。そのうちのひとつは、パリの近くのグレ=ザルマンヴィリエールにあるヴィニョール城で活動しているブルーノ暗号解読機関に送られた。 ポーランドでの成果無しではイギリスがエニグマ暗号を解読できた確率はとても低かったと言われている。ヒュー・シーバッグ=モンテフィオーレが指摘するところでは、ポーランドからの情報がなければ、ドイツ国防軍とドイツ空軍のエニグマ暗号を破るのは早くても1941年11月(エニグマの本体とコードブックを鹵獲した後)のことだっただろうし、、エニグマに似た暗号機を使ったドイツ海軍の暗号を破るのは1942年より後のことであっただろう。また、ブレッチレー・パークにあるイギリス暗号解読機関の暗号専門家であったゴードン・ウェルチマンによれば、ハット6でドイツ国防軍とドイツ空軍のエニグマ暗号の解読に携わっていた者たちは「ポーランドからぎりぎりのタイミングで得ることの出来た軍用エニグマの詳細とその運用方法を知らなければ何も進めることが出来なかったであろう」 とても複雑なドイツの暗号から得られた秘密情報はイギリスやアメリカでは「ウルトラ(英語版)」の暗号名で知られており、概ねエニグマによる暗号文書から得られたものであった。連合国側の勝利に対するウルトラ作戦(この暗号名はエニグマ暗号を破った事実が最重要機密よりさらに高度な機密にあたる―超最重要機密である―という意味が込められている)の実際の影響については議論の余地があるが、ヴワディスワフ・コザチュクとイェジ・ストラシャクは自分の著書の中で「ウルトラが戦争の終結を2年早め、おそらくはヒトラーの勝利を阻んだと一般的に信じられている」としている。また、イギリスの歴史家でブレッチレイパークでも働いていた、サー・ハンリー・ヒンズレーもやはり「少なくとも2年、ことによると4年戦争の終結を早めた」としている。ウルトラ情報に近づくことができたのも、早い時期にポーランドの暗号家によってエニグマ暗号が破られたことに負っていると考えてよい。
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