イギリスとミスキート王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)
「ホンジュラスの歴史」の記事における「イギリスとミスキート王国」の解説
1641年、スペインはカルタヘナから艦隊を派遣して、イングランドのプロヴィデンス島植民地を破壊した(スペインによるプロヴィデンス植民地占領(英語版))。これにより、ホンジュラス海岸に近いイングランドの基地が破壊されたが、同時期に奴隷反乱がおこり、奴隷たちは乗っていた船を乗っ取って、グラシアス・ア・ディオス岬で船を破壊した。上陸した奴隷たちはミスキート族の歓迎を受け、一世代後には混血のミスキート・サンボ人(英語版)というグループになり、1715年にミスキート王国の指導者になった。 一方、1655年にはイングランドがジャマイカに侵攻(英語版)、続いて海岸で同盟者を探した。イングランド人の目はミスキート族に留まり、1687年にはミスキート王ジェレミー1世(英語版)がジャマイカ(英語版)を訪れた。 この時期には多くのヨーロッパ人がホンジュラスに移民してきた。1699年の記録からは1人家族、ミスキートの大家族、スペイン人の集落、海賊のアジトが海岸に点在していることがうかがえる。イギリスは1740年に同地域を保護領と定めたが、この決定の後も強く支配したわけではなかった。イギリスによる植民は特にイスラス・デ・ラ・バイアで行われ、イギリスとミスキート族の同盟に現地民の支持もあったため、スペインも簡単に支配することができず、海賊にとってはいい隠れ家になった。
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