サイイド・アブドゥルラフマン・アル=マフディー(1885年–1959年)
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「アンサール (スーダン)」の記事における「サイイド・アブドゥルラフマン・アル=マフディー(1885年–1959年)」の解説
イギリスは、1898年にマフディー国を滅亡させた後、マフディー運動を抑圧した。また、当初、ムハンマド・アフマドの息子、アブドゥルラフマンの活動を厳しく制限したが、彼はすぐにアンサールを主導する人物に育った。英埃領スーダンと通称される植民地時代における多くの期間、イギリス人は、マフディー運動を穏健に導く指導者として、アブドゥルラフマンを重要視した。 1920年代後半には、毎年ラマダーン月になると、5千人から1万5千人の巡礼がアーバー島目指してやってくるようになった。巡礼の多くはアブドゥルラフマンが預言者イーサーの再臨であると信じ、彼がキリスト教徒の白人入植者たちをスーダンから追い出してくれるものと思っていた。アブドゥルラフマンは、ナイジェリアやカメルーンの宗教指導者と書簡で連絡を取り合っており、マフディー運動へのアンサールが最終的にキリスト教徒に対して勝利を収めると書いていた。イギリス人はこれに気づき、西アフリカの植民地における政情不安に関して、アブドゥルラフマンを非難した。西アフリカからアーバー島に来た巡礼者が大規模なデモを行った1924年以後、アブドゥルラフマンは巡礼を中止させたといわれている。 アンサール及びアブドゥルラフマンと似た立場にあったが、アブドゥルラフマンとしばしば対立したのが、ハトミーヤ教団の指導者、アリー・アル=ミールガニーであった。両者とも若者たちを神秘主義に立脚した運動に組織したが、独立が視野に入ったころ、対立する政党をおのおのが支持した。1936年にイギリスとエジプトの間で結ばれた条約の締結交渉においては、種々諸々の議題のうち、将来のスーダンについても話し合いがなされた。しかしながらスーダン人に議題が諮られることはなかった。教育を受けたスーダン人たちの中には懸念を持つ者の数が増えてきており、アンサールはそのような者たちを惹きつけた。アンサールの指導者たちはアル=マフディー(ムハンマド・アフマド)こそが最初のスーダン民族主義者であったと言い、多くの者がアブドゥルラフマンを魅力的な独立運動の指導者として考えるようになった。対照的に、アリー・アル=ミールガニーとハトミーヤ教団はナイル峡谷の一体化に賛成する親エジプト派であるとみなされるようになった。 1944年8月、アブドゥルラフマンは上院議員や部族長らと会合を開き、マフディー運動とは関係を持たない独立派の政党を作ることについて話し合った。1945年2月に「ウンマ党」(the National Umma Party)が組織され、党の第一書記、アブドゥッラー・ハリールが政府樹立の請願を行った。ウンマ党の綱領には、アブドゥルラフマンやアンサールについての言及はない。わずかに設立基金に関して党がアブドゥルラフマンを恃みにしたという点で、つながりが明らかにされている。 サイイド・アブドゥルラフマン・アル=マフディーは、1959年に74歳で亡くなった。アブドゥルラフマンのイマーム位は、息子のサーディク・アル=マフディーが2年ほど継いだあと、1961年に同じく息子のアル=ハーディー・アル=マフディーが継いだ。一方で、ウンマ党のリーダーシップは、サーディクの息子、サーディク・アル=マフディーが引き継いだ。
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