サイイド兄弟の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)
ムハンマド・シャーもまた、サイイド兄弟にしてみれば生殺与奪を握った手駒の一人に過ぎなかった。たが、ムハンマド・シャーは3人の皇帝のようにいつ殺されるのか怯え、トルコ系、イラン系の貴族らと組んでサイイド兄弟打倒の陰謀を企てた。 貴族らもまた、サイイド兄弟の恐怖政治に怯えており、皇帝の殺害は彼らを震え上がらせた。貴族らの間には皇帝すら殺されるのであれば、貴族でしかない我が身は一体どうなるのか、という考えが広まっていた。また、サイイド兄弟は民衆の支持も失っていた。彼らは民衆から一宿一飯の恩を忘れた人物とみなされていた。 そして、1720年10月9日にムハンマド・シャーを支持する貴族らはファテープル・シークリーで、軍務大臣フサイン・アリー・ハーンを刺客に暗殺させることに成功した。これにより、フサイン・アリー・ハーンの率いていた軍勢はムハンマド・シャーに帰順した。 弟の暗殺に驚いたアブドゥッラー・ハーンは新たな皇帝として、ラフィー・ウッダウラの弟にあたるイブラービームを皇帝に擁立し、ムハンマド・シャーに対抗した。だが、そのような事で打倒計画が潰えるはずもなく、ムハンマド・シャーは軍を率いてアブドゥッラー・ハーンの打倒に向かった。 同年11月15日、アブドゥッラー・ハーンとムハンマド・シャーの両軍はハサンプルで激突した(ハサンプルの戦い)。戦闘は昼に始まり夕方になっても決着がつかずに夜通し続けられる程の激戦で、翌16日の昼に決着が着いた。激戦の末、アブドゥッラー・ハーンは敗れて捕らえられ、ここにサイイド兄弟の横暴は終わりを告げた。 その後、ムハンマド・シャーの命により、1722年10月12日にサイイド・アブドゥッラー・ハーンは毒殺された。
※この「サイイド兄弟の終焉」の解説は、「サイイド兄弟」の解説の一部です。
「サイイド兄弟の終焉」を含む「サイイド兄弟」の記事については、「サイイド兄弟」の概要を参照ください。
- サイイド兄弟の終焉のページへのリンク