サイイド朝とは? わかりやすく解説

サイイド朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 14:07 UTC 版)

サイイド朝
سلسله سید
1414年 - 1451年

ムハンマド・シャーの墓(現ニューデリー
公用語 ペルシア語
首都 デリー
スルターン
1414年 - 1424年 ヒズル・ハーン(初代)
1421年 - 1434年 ムバーラク・シャー(第2代)
1434年 - 1445年 ムハンマド・シャー(第3代)
1445年 - 1451年 アラー・ウッディーン・アーラム・シャー(最後)
変遷
成立 1414年
滅亡 1451年

サイイド朝(サイイドちょう、ペルシア語: سلسله سید‎、Sayyid dynasty)とは、北インドの一部を4代37年にわたって支配した、デリー・スルターン朝の4番目のトルコ系イスラーム王朝(1414年 - 1451年)。首都はデリー。名称は、建国者のヒズル・ハーンが「サイイド」、すなわちムハンマドの子孫であると称したことに由来する[1]

歴史

1398年末、有能な統治者に恵まれず弱体化したトゥグルク朝は、ティムールの侵入により大混乱に陥り、無力化していた[2]1405年、ティムールが遠征の途上、中央アジアのオトラルで亡くなると、ティムール帝国は内紛を起こし、それを制したのはティムールの4男・シャー・ルフであった。

パンジャーブ総督のヒズル・ハーンはシャー・ルフに従って、1413年には王家が断絶して大混乱していたトゥグルク朝に攻勢をかけ、1414年にはデリーを占領してトゥグルク朝を滅ぼした[2]。そして新たに建国したのが、サイイド朝である。

しかし、その支配はデリーの周辺のみの弱体な王朝であり、周りをジャウンプル・スルターン朝マールワー・スルターン朝メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった[3]

また、ヒズル・ハーンはティムールの代理人をもって任じ、スルターンを称することはなかった[3]。ヒズル・ハーンの治世では、トゥグルク朝の貨幣がそのまま鋳造されて使われ、ヒズル・ハーンの子ムバーラク・シャーの時代もシャー・ルフの代理とし貢物を送り、代わりに礼服、儀式用の日傘が送られた[3]

3代目のムハンマド・シャーは無能な人物で王朝は急速に衰退し、パンジャーブのローディー族の半自立傾向が目立ちはじめる[3]

4代目のアラー・ウッディーン・アーラム・シャーのときに宰相のハミード・ハーンが権力を握ったが、1451年バフルール・ローディーによって投獄され、サイイド朝は滅亡した[4]

ここにローディー朝が成立することになったが、アーラム・シャーは1478年まで年金を受け取って生活した[5]。 

歴代君主

  1. ヒズル・ハーン(在位:1414年 - 1421年
  2. ムバーラク・シャー(在位:1421年 - 1434年)(ヒズル・ハーンの子)
  3. ムハンマド・シャー(在位:1434年 - 1445年)(ムバーラク・シャーの弟の子)
  4. アラー・ウッディーン・アーラム・シャー(在位:1445年 - 1451年)(ムハンマド・シャーの子)

脚注

  1. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.150-151
  2. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149
  3. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152

参考文献

  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』 創元社、2009年
  • 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年

サイイド朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/26 14:09 UTC 版)

デリー・スルターン朝」の記事における「サイイド朝」の解説

1414年ティムール代官でもあったヒズル・ハーンデリー制圧しデリー・スルターン朝4番目の王朝であるサイイド朝を開いた。 だが、サイイド朝はトゥグルク朝領土そのまま継承しただけなので、首都デリーその周辺しか支配していなかった。加えてジャウンプル・スルターン朝マールワー・スルターン朝メーワール王国囲まれて、王権不安定だったムハンマド・シャー治世数人貴族らが政権握りマールワーデリー制圧するように要請することもあった。また、パンジャーブ一帯に力を持ったアフガン系ローディー族台頭した

※この「サイイド朝」の解説は、「デリー・スルターン朝」の解説の一部です。
「サイイド朝」を含む「デリー・スルターン朝」の記事については、「デリー・スルターン朝」の概要を参照ください。

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